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サー・アレックス・ファーガソンの実像と虚像【欧州サッカー批評 6】

『ベールに包まれたファーギーの哲学に迫る』
26年にもわたってマンチェスター・ユナイテッドの指揮官を務めるサー・アレックス・ファーガソン。これほどまで長く1つのクラブで指揮を執り、そしてまた彼以上に栄冠を勝ち取った監督は他にはいない。マンUを常勝軍団へと変えたファーギーの指導哲学とはいかなるものか?現地記者が半生を振り返り、ベールに包まれた実像と虚像に迫る。(翻訳:藤井重隆)

text by オリバー・ホルト photo by Kazuhito Yamada


【写真:山田一仁】

凡庸だった選手時代32歳の若さで指導者の道へ

 赤い悪魔を指揮する、赤ワイン好きの、赤顔の監督。マンチェスター・ユナイテッドの巨匠 サー・アレックス・ファーガソン監督(愛称ファーギー)は、92年創設のプレミアリーグで唯一、毎シーズン指揮を執っている監督である。彼はプレミアリーグだけでなく、サッカーの母国イングランドで頂点に立つ監督として、現代サッカーの規範を作り上げていると言っても過言ではないほどの存在だ。

 監督キャリアの中で獲得した48の栄冠は、英国史上最多であり、紛れもなく英国最高の指揮官である。マンU史上最長就任監督、歴代最多の年間最優秀監督賞受賞、2度の欧州制覇を成し遂げた3人目の英国人監督。今までに獲得した名誉は数えきれないほどあるが、99年に欧州CL、プレミアリーグ、FA杯の3冠を達成した際には、女王から大英帝国3等勲位を授かり、サーの称号を手にした。70歳となった今もサッカーに対する情熱は色あせることはない。

 ファーギーは86年の就任以来、約26年もの間に、マンUを世界最高峰のクラブに作り上げた。彼がクラブにもたらした12度のリーグ優勝、5度のFA杯優勝、2度の欧州CL優勝という功績を見れば、偉大な監督であることは一目瞭然だ。「マンUの顔」「プレミアリーグの顔」は、勝利の術を熟知しており、彼が率いるチームも常勝の道を歩んできた。マンUはこれまでに数多くの生え抜きスター選手を輩出し、今やプレミアリーグで最も嫌われるチームにもなった。

 ファーギーの出身は、スコットランドのグラスゴー南西部の町ガバン。プロテスタントを信仰する家系で、レンジャーズのファンとして育った同氏は、その環境からプロテスタント流の「勤労第一主義」という倫理観を教え込まれた。現役時代は地元のアマチュアクラブでFWとしてサッカーに打ち込む傍ら、10代後半には造船所の組合代表者に抜擢され、人事管理能力も培った。その後プロとなり、選手として脂の乗った20代後半に夢だったレンジャーズで約2年間プレーしたが、活躍できずに限界を迎え、32歳の若さで監督の道に転向した。

 この早期監督転向が、成功の始まりとなる。最初に指揮したクラブはスコットランド2部の弱小チーム、イースト・スターリングシャーで、当時の給与は週40ポンド(約3万2000円)だったという。だが、駆け出しの監督には絶好のスタートだった。彼は独自の統率力ですぐさまチームに厳しい規律を敷くと、数ヶ月もしないうちに同リーグのセントミレンに引き抜かれる。当時から若手に目をつけ、平均年齢19歳というチームを作り上げると、たった3シーズンで1部昇格を果たした。

 しかし、気性の荒さがクラブ経営幹部との間に溝を作り、キャリア唯一の「解任」に処されると、スコットランド1部アバディーンへと移籍。そこで築いた8年間の監督生活では、2季目のリーグ制覇を皮切りに、欧州カップウィナーズ杯(現ELに相当)を含む、10個の主要トロフィーを獲得。名実ともにプロ監督の仲間入りを果たした。ファーギーは、リバプール、アーセナ ル、トッテナム、レンジャーズといった強豪クラブから打診を受けたがアバディーンへの忠誠心を尊重。同クラブでの最終シーズンとなった85-86年にはスコットランド代表監督も歴任し、86年11月にマンU監督に就任した。

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