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中田英寿という生き方(後編)【フットボールサミット第2回】

『「偏屈者」と呼ばれしサッカー界のトリックスター』
さまざまな革命をもたらしながらも、日本の社会では「偏屈者」「変わり者」というレッテルを貼られてしまう中田英寿という生き方。日本的な甘えを断つその生き様は、引退後のいまもさほど変わっていないように思える。再び新しい道を切り開こうとしている彼は、またも日本の社会と対峙することになるのか。

text by 大泉実成 photo by Kazuhito Yamada

【前編から続く】


中田が選手としての強さを保てた理由とは【写真:山田一仁】

中学生時代の有名なエピソード

 たとえば、中田の中学生時代の有名なエピソードに次のようなものがある。

 当時、甲府北中のコーチをしていた皆川新一は、試合に負けた生徒たちに罰走として50本のダッシュを命じた。僕自身中学時代は野球部だったが、何か不祥事があったり試合に負けたりしたときに「ダッシュ50本」というのはよく経験したものである。皆川は1960年生まれ、僕は1961年生まれなので、おそらく皆川も自分が体験したことを子供たちに課していたのだろう。無論僕らの世代には、指導者のそのような命令に反論するなどありえないことだった。

子供たちは不承不承ながら当然のことのように「罰」を受けたのですが、ヒデだけはベンチの脇に立って走ろうとしないのです。怪訝に思った私は、
「どうした。なぜ走らんのだ!」
と語気を荒げたのです。ヒデの答えはこうでした。
「走る理由がわからない。俺たちだけが、走らなければならないのは納得できない。皆川さんも一緒に走ってくれ。だったら俺も走る」

引用元:『山梨のサッカー』山日ライブラリー

 このとき中田英寿は中学2年になったばかりだった。人間のタイプというのは、実は社会経験をつんでいない子供時代のほうが、補正されていないため、より強く現れる。

 論理的に考えれば、誠に中田の言うとおりであろう。試合に負けたことについては、選手にも責任があるが、指導者にも大きな責任があるからである。

 中田にとって幸運だったのは、皆川が凡百の指導者と異なり、中田の話の論理性を認めて自分も共に罰走に参加するような人間だったことである。実際に自分で走ってみたら20本でダウンし、そこで「罰」は終了にせざるをえなかったという。このとき皆川は、自分の指導者としての理念や知識、スキルのなさを痛感し、のちにドイツに渡って3年間サッカーの指導法を学ぶことになる。

中田は数知れない危機を乗り越え、生き延びた

 しかし日本の指導の現場では、「はい」と返事をして言われたことを素直にやるのが「いい子供」であるという通念が強いのではないか。おそらく母性社会日本の大多数のコーチは、罰走を課して中田のように反論する子供がいたら、「子供に口ごたえされた」「自分に逆らった」と感じ、感情的になって激怒するだろう。その結果、中田は排除されていたかもしれなかった。

ヒデ少年は、ある意味では問題児だったと言えるかもしれません。中二の「事件」のとき、私が、ふざけたことを言うなと殴りつけていたら、果たして中田英寿という個性は、世界に羽ばたくことができたでしょうか。そう思うと、私は時々ぞっとすることがあるのです。

引用元:『山梨のサッカー』山日ライブラリー

 皆川がこのように考えるもうひとつの理由は、ドイツでの指導体験により、日本社会を相対的に見る視座を持ったからである。

ドイツの子どもたちは、試合前のミーティングで、コーチの指示に対して必ず説明を求めてきます。「なぜこのシステムで戦うのか」「なぜこの戦術をとるのか」。それに対してコーチは、システムや戦術の意図をきちんと説明します。そうやって納得させないと、ドイツの子どもたち(ヨーロッパの他の国の子どももそうなのでしょうが)は動かないのです。

ドイツ留学中、こういう場面に出会うたびに、ヒデはこのタイプの子どもだったのだなあと思いました。日本の子どもとしては、独特の個性ですね。

彼がヨーロッパのサッカー界で通用しているのは、このヨーロッパ人に似た個性の持ち主であることが要因のひとつなのかもしれません。

引用元:『山梨のサッカー』山日ライブラリー

 このように、ヨーロッパでは当たり前の個性が、日本社会では圧殺され、「問題児」「変わり者」「偏屈者」にされてしまう。したがって中田の半生は、母性社会日本の中で、強い論理性といういわば「父性」を持った彼が、圧殺されてしまうのか、それとも生き延びて成功するのか、というテーマを帯びたものであった。

 このような危機は数知れないほどあっただろう。しかし中田はそれを乗り越え、生き延びた。

 そして、英雄になった。

中田の持つトリックスター性

 以前、僕は中田の持つトリックスター性について書いたことがある。

 トリックスターというのは使い古された文化人類学の用語である。何をやりだすかわからないいたずらな変わり者で、変幻自在で神出鬼没。通常の価値観からすると、社会の秩序を乱すどうしようもないいたずら野郎だが、このトリックスターの存在によって、固まってしまった制度や価値観が破壊され、その世界に革命的な進歩がもたらされる場合がある。

 サッカーの世界で中田が果たした役割は、まさにこのトリックスターだった。彼の出現は一時的に日本のサッカー界を混乱させたが、その活動が広がると同時に日本サッカーに革命的な進歩をもたらした。失敗したトリックスターは因幡の白兎のように皮を剥がれてしまうが、成功したトリックスターは英雄になる。中田は成功したトリックスターという稀有な存在であり、サッカーという文化における文化英雄だった。そして、サッカーが多くの人間の関心を集める日本では、スポーツの枠を超えた国民的な英雄になった。

 正直なところ、英雄になってしまった人間には、さしたる興味がなかった。

 なんといってもいったん英雄になった人の言動は優等生的で面白みに欠ける。それにこうした人たちの動向はメディアがよってたかって教えてくれる。僕のやるべきことは何もない。英雄は遠くにあって思うもの、英雄は敬して遠ざけるべきものであるというのが、僕のスタンスだった。

 そして2006年、中田英寿は引退した。

引退後、メディアを巻き込んで大きな試合を行った目的

 引退した中田は旅人となり、何かと物議をかもした。僕も突然の引退には驚いたが、なんといってもそれは中田の人生である。英雄になった人間がいつ引退しようと、また自分の稼いだ金を使ってどこを旅をしようと、それはわれわれには何の関係もないことだった。僕は相変わらず、引退して日本の現実と悪戦苦闘している元選手や、女性問題を起こして苦しんでいる選手、引退目前でJリーガーだというのにわれわれと大して違わない給料しかもらっていない選手などの取材に没頭していた。

 2008年、中田は世界の有名選手を集め、メディアを巻き込んで大きな試合を行った。いわば英雄たちのドリーム・マッチである。自らのコネクションでこれだけの選手を巻き込みスポーツビジネスを行う中田は、まさに強力な英雄として天を舞っているように見えた。

 ところが、2009年3月になって、中田率いるTAKE ACTION FCが、J2(当時)のヴァンフォーレ甲府とエキシビジョンマッチを行うという情報が入ってきた。

 TAKE ACTION FCというのは、2008年に中田が中心となって企画し、横浜でやった興行「+1 FOOTBALL MATCH」で、世界の名選手たち(ワールドスターズ)と戦ったジャパンスターズが母体になっている。中田はこの興行で6万人以上の観客を集め、そのカリスマの健在ぶりを示した。中田といえば「世界」というイメージだから、やるとしたらそういう派手派手しい興行だろ、と思っていた。ところが今回、どういうわけかJ2のチームと試合をやるというのである。

松原良香が中田と2人で話したこと

 これは試合後、ゴールを挙げた松原良香に話を聞いてわかったことだが、中田はかなり以前から引退後のJリーガーの生活について考えていたらしい。

「僕は2005年に引退して、あれは2007年の11月か12月頃かなあ、ヒデがリオで行われるジーコのチャリティーマッチに行くので体を動かしたいと。でも1人じゃ物足りない。それで『一緒にやる?』っていうふうに言われて、それが何年ぶりかの再会だったんです。で、一緒にトレーニングをやって、いろんなことをお互い話すようになった。

 ヒデは初め日本の状況を聞いてきたんですよ。みんなサッカースクールとかバラバラにやってるけど、どうして一緒にやらないの、サッカー一緒にやってきた仲間なんだから一緒にやればいいのに、とか」

 引退後サッカーの指導者やサッカースクールをする人間は多いが、経済的にはたいへんだと聞く。例えば、求人誌に提示された少年サッカーのコーチの月給は15万円足らずでしかない。「ヒデもその辺はよくわかってましたよ。『サッカー選手、サッカーやめたら食えないでしょ。仕事ないでしょ』って。こいつはどこでそんなこと調べたのかと思いましたよ。『元サッカー選手はどうやって生活していくんだろうね』って」

 くしくも、ここで中田と僕の連載は、まったく同じ問いを発することになったのである。

 松原の視点から見ると、世界を旅していた中田が日本の元サッカー選手たちの現状を知り、その結果始めたのがTAKE ACTIONでありLIFE AFTER FOOTBALLプロジェクトだったということになる。

「そういうことに気づいてくれた、そして行動に移してくれた彼というのは、やはり日本のサッカー界に必要なんですよ。そういうタイプだとは思ってなかったんで、『エッ』と思いましたけどね。でも嬉しかったですよ」

TACE ACTIONを成功させるために、自ら買って出た苦労

 そういうタイプだと思っていなかった、という点では、僕も松原とまったく同感だった。TAKE ACTIONについての詳しい考察は別稿(フットボールサミット2・162頁~)に譲るが、僕はこの事業を高く評価すると共に、この事業の可能性を探るためには中田英寿という人間を英雄という枠から外し、改めて1人の人間としてどんなタイプなのかを分析する必要があると感じた。

 いずれにせよ、TAKE ACTIONを成功させるためには、改めて日本の社会と、とりわけ日本サッカー協会と対峙しなければならない。なぜなら、あらゆる日本でのサッカーの興行には、協会の許可が必要だからである。こうした意味で協会は既得権益者であり、当然中田の興行に対してさまざまな形で干渉してくるはずである。このような日本型の官僚的組織とうまく付き合っていくかがどれだけ大変かということは、いまさら書くまでもないであろう。

 どうして中田は自ら買って出てこんな苦労をするのだろうか。しかも、この事業は一歩間違えれば、彼がこれまで築き上げてきた英雄のイメージを地に落とす可能性すらある。こんな事業に取り組まなくても、彼ならほかにどのような楽しい人生でも送れそうではないか。

 そのような意味では、今、彼は再び「変わり者」として日本社会と対峙しているように見える。

圧倒的“父性”を帯びた中田は、この社会に何をもたらすのか

 総じて言えば、中田英寿という生き方は、論理的で理想が高く、しかも完全主義という、きわめて強い「父性」を帯びた生き方である。彼がこれまでやってきた一番重要な仕事は、「切断」であった。あの強くて速く誰にも追いつけないパスでピッチを切り裂き、サッカー社会にはびこる日本的な甘えを切断することで、中田は日本のサッカーに革命をもたらした。そして一度は日本社会に勝利を収めた。

 しかし、感情的で仲間意識が強く、馴れ合うことで人間関係を強めていく母性社会日本は、常に彼の行く手に立ちはだかるだろう。あらゆる物を我が子ととらえ、感情的な関係を持ち続けようとするこの社会は、まるで四方八方から触手を伸ばし繁茂し続けようとする熱帯のジャングルのようである。

 選手として一度この社会に対して勝利した中田だが、今、事業家としてもう一度この社会と対峙しなければならない立場に立った。いわばふりだしに戻ったわけである。

 中田英寿が中田英寿であろうとするなら、彼は再び強い父性という山刀をもって、このジャングルを切り開いていこうとするだろう。しかしそれは選手時代よりははるかに困難な戦いとなる。というのも、それまですべてをねじ伏せてきた彼の圧倒的なサッカー選手としての能力は、この戦いではほとんど意味を持たないからである。そしてこの社会は、そんな彼を再び「変わり者」とみなすだろう。

 しかし。

 サニーサイドアップ的には「偏屈者」というのはイメージが悪いのだろうが、僕にとっては、日本社会と馴れ合い、挑戦を忘れた「英雄」よりは、挑戦する「変わり者」「偏屈者」のほうがはるかに魅力的である。再びトリックスターに戻った彼の冒険は、この社会にいったい何をもたらすのだろうか。

【了】

初出:フットボールサミット第2回

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