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アンドレア・ピルロ 天才レジスタの「戦術眼」(前編)

text by クリスティアーノ・ルイウ photo by Sinichiro Kaneko/Kaz Photography

 というわけで、僕は少しずつプレーの位置を後ろに移していったんだよ。そしてインテルからブレッシャへ戻った僕は、そこで幸運にもカルロ・マッツォーネという偉大な監督と巡り会うことができてね。彼が最初に言ってくれたのが、『本当に巧いヤツってのは限りなくシンプルにプレーするものだ』って言葉。これが結果として当時の僕を根本的に変えることになるんだよ。

 続けて、監督は僕に、『見てみろ、あそこに最高の手本がある』って言いながらロビー(・バッジョ)を指差したんだ。そこには、“難易度の高いプレーとシンプルなプレーの比率は1対99”を完璧に実践するファンタジスタの姿があったわけだよ。さらに、マッツォーネは僕にこうも言ってくれた。『単なるタマ遊びの曲芸師に終わるか、それとも本物のジョカトーレになるか。アンドレア、ロベルトの後ろでプレーしながら考えてみろ』と。こうして2001年の冬、レジスタ・ピルロが生まれたんだよ」

レジスタとしてのピルロを確立させたプレー

――ただ実際には、マッツォーネは君のブレッシャ入り以前からレジスタにコンバートする意向だった。

「そうなんだよ。この僕を獲るために監督は早くからコリオーニ(ブレッシャ会長)に“ピルロ―バッジョ”ラインの構想を伝えていたらしいんだよ。で、その監督のお陰で、故障で戦列を離れるまでのあのブレッシャでの10試合がある。少ない機会だったんだけど、それでもあの10試合は僕にとって途轍もなく大きな意味を持っていた。覚えているだろ?

 あの01年4月1日の対ユベントス。僕がセンターラインから放った40mパスをロベルトが奇跡のトラップで受けるとそのままGKをかわして左足でそっとゴールへ流し込んだという一連のプレー。もちろんあの難しいトラップを決めてくれたロベルトによるところが大きいんだけど、あれがまさにレジスタとしての僕を確立させてくれたプレーだったと思っているんだ」

――そして翌01-02シーズンに君はミランへ移籍。しかし……

「そう、でもそこにはルイ・コスタがいた。当時の世界でナンバー1と言われていた10番の彼がいたからね。まだ22歳だったこの僕に監督(ファティス・テリム)が課した役割は、他ならぬルイ・コスタの控え。なので、またしても僕はプレーの場を失うことになってしまったんだ」

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