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ハーフナー家の絆 ~親子ニ代で日本人になるということ~(前編)

text by 元川悦子 photo by Kenzaburo Matsuoka

「ハーフナー・ディド」としての新たな人生

 その後、87年にマイクが生まれ、一度はオランダのPSV移籍話も浮上した。が、マツダの反対もあって契約は成立せず、ディドは89年に読売クラブ(現東京V)に移籍した。さらに92年には名古屋グランパスに赴く。この時点で滞在期間が7年に及んでおり、すっかり日本に慣れていたことから「できるならこのままずっと日本にいたい。家族も気に入っているし、自分自身も残って仕事も続けたい」という思いが非常に強くなっていた。

 その気持ちを当時、名古屋で指揮を執っていた平木隆三監督に打ち明けると「グッド・アイデア」と背中を押された。

「『じゃあ、国籍を取る手続きをやってみようか』という話になって、西垣成美代表から弁護士を紹介してもらいました。書類を出したのは93年4月。何十枚も紙を書いて、何回も面接に行きました。日本政府は厳しくて、私の周辺のリサーチも徹底的にやったみたい。オランダでも『ハーフナー・ファミリーはどういう一家か?』と尋ね回ったみたいだし、以前住んでいた広島や東京の隣の人や子供たちの幼稚園の先生にまで話を聞きに行ったようです。それで94年1月にやっと日本のパスポートをもらうことができました」

「日本人=ハーフナー・ディド」として新たな人生を踏み出すことになった彼だが、母国に対しては一抹の寂しさを覚えることもあった。しかしパスポートが変わっただけで、オランダに住む家族との絆が失われることなど決してない。そう考えたら前向きな気持ちになれた。これから日本で成長していく子供たちのことを第一に考えなければならないと勇気が湧いてきたという。

 すでに長女のダニエラは小学生、長男・マイクは幼稚園に通っており、翌95年には次男・ニッキが誕生したが、彼らを日本人として育てないといけない。そのためには、日本の習慣を理解させ、マナーを身に着けさせる必要がある。そう考えたディドは長い生活の中で知った日本人とオランダ人の違いを子供たちに繰り返し諭した。

「オランダ人は何事もストレートでハード、そしてディスカッションを好みます。個人が強くて、1人で行動できますよね。でも日本人は周りをよく見て、雰囲気を見ながら行動する。個人は強くないけど、グループになったらすごい力を発揮します。そういう違いをよく勉強するようにと言いました」

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