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どこまでも紳士なアーセン・ヴェンゲルが頑なに拒んだ“ある儀式”

アーセナルの監督アーセン・ヴェンゲル。その佇まいから容易に想像できるが、彼はどこまでも紳士である。会った人を一度で虜にしてしまう魅力がある。そんなアーセンがプレミアリーグで拒んでいる“儀式”があるという。

text by 東本貢司 photo by Asuka Kudo / Football Channel

約束の時間に遅れて来たヴェンゲルだが…

ヴェンゲル・コード
好評発売中の『ヴェンゲル・コード』(リチャード・エヴァンズ著・東本貢司訳)

 拙訳『ヴェンゲル・コード』(リチャード・エヴァンズ著)の冒頭近くに、ごく最近のアーセン・ヴェンゲルの言葉を引用したこんな一節がある。

「プレーヤー同士が実際に話もできないようでは最高レベルでのプレーには絶対に到達しない。ハイレベルなコミュニケーションがあって初めて高度なダイナミズムが生まれる」

 この原文を読んだ瞬間、わたしは思わず膝を打っていた。そして、苦笑した。“あの程度の体験”が「ダイナミズム」とはさすがにおこがましい。だが、少なくとも、わたしが彼の人柄にほだされ、以後彼の言う事に耳を傾けたいと欲したことは紛れもない事実だ。

 日本が初めてW杯本大会に出場した1998年、その開幕から約4か月前の2月のことである。当時アーセナルがトレーニンググラウンド、およびそのクラブハウスとして使っていたロンドン郊外の小さなホテルで、わたしは初めてヴェンゲルと対面し、言葉を交わした。

 あるプロジェクトでヴェンゲルにインタヴューの約束を取り付けていた数人のグループに同行、そのスーパーバイザー兼通訳補佐としてである。

 会見場所に指定されたホテルのダイニングルーム別室で待っていたわたしたち一行の前に、約束の時刻を一時間弱遅れて姿を現したヴェンゲルは、まず謝罪の言葉を口にした。

 が、次の瞬間、“飾り気”一つないテーブルの上を一瞥した彼は、さっと立ち上がるとすぐ近くの厨房に通じる仕切り戸に近寄り、声高に人を呼んだ。そして、純白のシャツの袖をまくりあげたヴェンゲルの影の向こうに現れた給仕らしき女性に、彼が語気鋭く浴びせたささやき声を、わたしは聞き逃さなかった。

「君たちには、わたしの大切なゲストをもてなすという発想すらなかったのかね!」

 そして再び、眉間に深いしわを寄せて彼はわたしたちに頭を下げた。しばらくして運ばれてきたのは……ヴェンゲルたってのオーダーによるミネラルウォーターだった。

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