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震災を乗り越え全国大会へ。バラバラになった生徒たちを結んだ富岡高校サッカー部が作った絆

text by 川端暁彦 photo by Akihiko Kawabata

使用できぬグラウンド。津波で行方不明となった仲間

 富岡高校は福島第一原発から10km圏内。いまもなお警戒区域に指定されているエリアに、学校はある。立派な人工芝グラウンドを始めとする県内有数の施設は学校に関わる者の誇りであったが、いまは誰も使う者はいない。

 事故時、自らマイクロバスを運転して生徒と地域住民を乗せて避難した佐藤弘八監督を始めとする富岡高校の面々は、震災後の苦難にも毅然と戦い続けてきた。

 散り散りになった生徒は、現在は県内3つの高校と、県外1つの高校をサテライト校として分散して通学している。県外の一校は、静岡県に避難したJFAアカデミー福島の選手たちが通う学校である。

 サッカー部の選手たちは福島北高校に通学しつつ(部員の8割ほどは市内の旅館への宿泊を継続している)、主に市内にある十六沼公園で練習を重ねてきた。現3年生は事故時の11年3月には入学間近だった中学3年生で、数人が入学辞退となった。ただ、「戻って来てくれた選手もいるんです」と佐藤監督。

 この決勝で右MFとして奮闘した草野倫仁は、いったん県外の高校に進学しつつも、やはり福島県の仲間たちとプレーすることを選び、戻って来た。「どうなるか何も分からない状況でも、『富岡でサッカーがやりたいんです』と残ってくれた選手たち」と佐藤監督は言う。

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GK・高瀬凌平【写真:川端暁彦】

 入るはずだったのに、そうはならなかった選手もいる。富岡への入学が決まっていたDF貝塚晃太さんは、押し寄せた津波と共に行方不明となった。

「気迫あふれるプレースタイルのDFでした」と語るGK高瀬凌平にとっては小学校時代の県選抜で一緒にプレーしたときからの友人であり、事前の練習会などでも高校生活での夢を語り合った仲だった。今年3月2日に行われた貝塚さんの告別式から、「貝塚と一緒に戦い、一緒に全国へ行くこと」は富岡サッカー部の自然な目標になった。

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