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ブラッターに最も近い日本人。元電通専務・高橋治之が語るFIFA会長の真実

7月6日発売の『フットボール批評issue06』(カンゼン)では、FIFA会長・ブラッターに最も近い日本人と言われる“サッカービジネスの巨人”元電通専務・高橋治之氏にインタビューを行っている。一部を抜粋して紹介する。

text by 田崎健太 photo by editorial staff

共用会議室でのブラッターとの出会い

 高橋治之が初めてゼップ・ブラッターと言葉を交わしたのは、77年の年末、岸記念体育館の会議室だったと記憶している。

 渋谷区神南にある岸記念体育館は64年、東京オリンピックに合わせて建設された。日本オリンピック委員会や日本体育協会のほか、各種競技団体が本部を置く地上5階、地下1階のビルである。サッカー協会もこの鉄筋ビルの一室を事務局としていた。

 この日、サッカー協会は共用の会議室を借りて、約2年後に行われる「FIFA・ワールドユース」の会議を開いていた。狭い部屋には、サッカー協会、大会スポンサーのコカ・コーラ、そして電通の高橋たちが詰め込まれていた。その中にブラッターがいたのだ。

ブラッターに最も近い日本人。元電通専務・高橋治之が語るFIFA会長の真実
高橋治之はアベランジェ、ブラッターなどサッカー界の“怪物”たちと渡り合ってきた【写真:編集部】

 このとき、ブラッターの肩書きは国際サッカー連盟(FIFA)のテクニカル・ディレクターだった。平たく言えば、会長のジョアン・アベランジェのアシスタントだと高橋は認識していた。

 20才以下の選手で行われる、ワールドユースはアベランジェの肝いりで始めたものだった。第1回大会をこの年、アフリカのチュニジアで開催していたが、とても成功とはいえない結果だった。二度の失敗は許されない。そのため、アベランジェはブラッターを送り込んだ。

 1936年3月10日、ブラッターはスイスのマッターホルンに近いフィスプという小さな街で生まれている。スイスは多言語国家であり、フィスプ近辺ではドイツ語が日常会話として使用されていた。スイス・アイスホッケー連盟を経て、時計メーカーの「ロンジン」に入社。そこでオリンピックの運営に携わりアベランジェから誘われて、75年からFIFAの事務局に入っていた。

 ブラッターはドイツ語のほか、フランス語、英語、スペイン語、イタリア語の五カ国語を流ちょうに操ることができた。多国籍組織であるFIFAを本格的に動かそうとしていたアベランジェは、ブラッターのような人間を必要としていた。

 74年、アベランジェは、イギリス人のスタンリー・ラウスを破ってFIFA会長となった。それまでFIFA会長は、ワールドカップの名前にもなった3代目会長フランス人のジュール・リメなど、欧州の人間が独占していた。第3諸国のブラジルの人間がこうした国際的組織の長についたのは、初めてのことだった。

 アベランジェは会長選挙でこんな公約を掲げていた。

1、ワールドカップ本大会の出場国を82年には24に増やす
2、20才以下の世界選手権を創設する
3、二一世紀に相応しいFIFAの新しい本部を建設する
4、開発途上国の協会に用具を提供する
5、開発途上国におけるサッカー競技場の建設、修復を援助する
(以下略)

 これまでサッカーの人気は欧州、そして中南米に限られていた。アベランジェはサッカーを世界中に広げると宣言し、アフリカ、アジアの支持をとりつけたのだ。

 ただ、こうした公約を実現するには資金が必要だった。その後ろ盾となったのが、アディダスとコカ・コーラである。

 特にコカ・コーラは、ワールドユースの冠スポンサーになっていた。ブラッターはアベランジェ、そしてコカ・コーラの信頼を勝ち取るために、極東の地で行われる、第2回ワールドユースを成功させなければならなかったのだ。

 高橋がワールドユースに関わることになったのは、この会議から先立つこと数ヶ月前に開催した「ペレ・サヨナラ・ゲーム・イン・ジャパン」がきっかけだった。

 これは日本サッカーの「正史」の中では、ひとつの親善試合として軽く触れられるだけかもしれない。ただ、日本のサッカービジネスの観点では、ここからすべてが始まったともいえる――。

 元ブラジル代表で北米リーグのニューヨークコスモスに所属していたペレが引退を表明、日本で古河電工、日本代表と二試合の引退試合を行うことになった。高橋はこの試合のプロデューサーを任されていた。

 このとき、日本のサッカーはどん底にいた。この年の日本リーグの平均観客数は1試合あたり1773人、過去27シーズンで最低の数字だったのだ。サッカーでは客は入らない、というのが定説だった。

 高橋はそうした数字は気にならなかった。サッカーを知らなくとも、ペレの知名度は抜群だ。彼の最後の試合を観たいと考える人間は沢山いるはずだと踏んでいた。いかにこの試合の存在を多くの人間に知らしめることができるか、だった。

 まずは名称に頭を悩ませた。

〈古河電工対ニューヨークコスモス〉、あるいは〈日本代表対ニューヨークコスモス〉では人を惹きつけることができない。そこで高橋は、「ペレ・サヨナラ・ゲーム・イン・ジャパン」と名付けた。

 次に高橋が考えたのはテレビを利用することだった。当時、スポーツイベントのほとんどは新聞社が主催しており、告知は新聞が中心だった。しかし、テレビの影響力は新聞以上である。テレビで告知を流すことが出来れば、自然と客は集まることだろう。

 しかし、テレビ広告を打つ資金はない。

 そこで、高橋はこの試合にスポンサーをつけることにした。このとき、サントリーが「サントリーポップ」という新しい清涼飲料水を売り出していた。ポップの王冠を集めて送ると試合チケットが抽選で当たるというキャンペーンを提案したのだ。そして、それは当たった。ポップのテレビコマーシャルや新聞広告にペレ・サヨナラ・ゲームの文字が出ることになり、子どもの間でチケットの奪い合いが起きるほどの騒ぎとなったのだ。

 高橋はサントリーにスポンサーを頼む際、ピッチサイドに看板を置くと約束していた。

 ところが――。(続きは『フットボール批評issue06』でお楽しみください)

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