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Jリーグ 7年前

本山雅志、プロ19年目で初体験の“プレッシャー”。故郷・北九州で挑むJ2残留争い

text by 藤江直人 photo by Kaz Photography, Getty Images

「10」番を背負うことも状況次第では可能だった

鹿島では長年にわたり10番を背負った
鹿島では長年にわたり10番を背負った【写真:Getty Images】

 たとえば背番号。今シーズンはチーム内でもっとも大きな「43」を背負っているが、これは登録が遅れたからではなく、本山自身が望んでつけたものだ。ギラヴァンツ側は当初、アントラーズにおける本山の功績に敬意を表して、背番号に関してこんな言葉をかけてきた。

「10番をつけたいのならば、コテに聞いてみて」

 コテとは大分トリニータから加入した2013シーズンから、背番号「10」を託されてきたMF小手川宏基。アントラーズ時代に続いて「10」番を背負うことも状況次第では可能だったが、本山はギラヴァンツへの移籍が決まったときから「43」しか考えていなかった。

 北九州市立二島中学校から、全国の猛者たちが集まる名門・東福岡高校へ進んだ1995年。練習試合に臨むために手渡されたユニフォームに記されていた番号が、実は「43」だった。

「東福岡は僕が飛躍したチームでもあるので。そこで付けた最初の背番号のもとで、原点に戻ってサッカーをやりたいな、という気持ちですね。なので『10』に関しては何も考えていませんでした」

 迎えた今シーズン。昨シーズンはJ1を戦ったモンテディオ山形をホームの北九州市立本城陸上競技場に迎えた2月28日の開幕戦で、ギラヴァンツはJ2に加盟して7シーズン目にして初となる白星発進を果たす。本山も後半24分から途中出場し、歓喜の瞬間をピッチのうえで味わった。

 しかし、J3から初めて昇格したレノファ山口に初勝利を献上した第2節を境に、風向きが大きく変わる。第13節のFC町田ゼルビア戦まで実に11試合も勝ち星から見離され、松本山雅FCに苦杯をなめた第16節終了時には2010シーズン以来となる最下位に転落した。

 本山自身も後半途中からの出場が多くなった。しかし、自身のコンディションと、何よりもチームが置かれた状況と戦力とを考えたときに、それが指揮を執って4シーズン目となる柱谷監督の考えうるベストの戦略だと受け止めて、与えられたチャンスでベストを尽くしてきた。

「けが明けという時期もありましたけど、チームとして守備を重視する戦い方が多くなってきたので、その部分で後半に勝負をかける途中交代だったと思っています」

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