前回までのあらすじ

プロローグ 地獄と余命Hells and expectancy

book_img AK47の銃床ストックが振り下ろされて頭蓋が揺れる。

 比喩ではなくチカチカと火花のようなものが見え、激痛が走った。これまでの人生で空中での競り合いを避けてきた苦労が無駄になる一撃。ヘディング脳になったら責任とれよと、バカでも言わないとやってられない。タイルの床に突っ伏したまま、涙も鼻水も垂れ流し級の痛みをこらえるには。

「テ、マタレー」

 殺してやる。簡素なスペイン語がわかってしまう自分が呪わしかった。

 銃床で殴るのはほんの前戯のはずだ。やるつもりなら。

 期待にたがわず男はガチャリと撃鉄を起こし、こめかみに銃口を突きつけてくる。

 びびった心臓がどくどくと音を立てているのがわかる。速い鼓動で押し出された血が耳の裏でごぉっと唸りを上げている。

 粘っこい脂汗がしたたり落ちた。

 失点がたまって人生から見放される、最後の瞬間だと思うとぞっとする。

「サルガ、デスデ、アキ」

 怨嗟の呻きを断ち切る、こっから出ろ、という命令。危機を知らせる時計は数秒間巻き戻ったらしい。

 が、期待しちゃいけない。

 武器を構えた浅黒い肌の男たちは一様に冷たい眼で睨みつけ、何事かあればぶっ放すというオーラを醸し出して威圧する。殺意のリミッターが外れている感じだ。上官がやつらを飼いならすために麻薬を与えているのかもしれない。

 廊下に出ることで、自分が監禁されていた場所が三メートル四方の狭い部屋だったことを知った。連れていかれた先は同じ煉瓦造りの建物の行き止まりだ。窓も何もなく、さきほどの部屋よりかなり広い。

 男たちは黙って立っている。

 息ひとつ許されないような張り詰めた空気。

 死にたくない。

 でも死ぬだろう。それはいつ? 何秒後だ?

 うろたえて泳ぐ眼を壁に走らせると、蜘蛛のような何かが壁を這っていることに気づく。一瞬光ったようだけれど、見まちがいだろうか。

 男のひとりは小銃でこづきながら「センタルセ」と言い放つ。その命令に従い、たったひとつの椅子に座ると、黒い布を被せられた。

 衣擦れの音。

 ガチャガチャ、と何かを用意している音。

 その度に腹の筋肉や睾丸、肛門がきゅうっと締まり、危機を脳に知らせる。でも、その信号を受け取っても解決する手段がない。

 強い畏れによって身を固くしたとき、ヒュン、と何かが飛んでくる音がした。

 何かが破裂したような、それでいてボウリングのピンの倒れる音が混じったような、ドシンとした揺れが上書きする。

 少し遅れて怒号が響き、やがて悲鳴にとってかわった。

 布一枚に匿われただけのぼくの耳は衝撃から逃れることができなかった。

 鼓膜は破れていない。それでも、トゥー………ン、という受話器の待機音のような響きがずっと聞こえている。

 その耳鳴りの隙間に、ぱらぱらと破片がこぼれる音が混じっている。

 どうせ殺されるものならと、被せられていた布を剥ぎ取り、辺りを見ようとした。眩しさが過ぎると、部屋の様子が眼に入ってくる。

 壁は壊れ、出入口ができていた。大半のやつらは斃れている。

 ふたりだけ、けがをしていない男が立ち上がって外を見ていた。そこにいるだろう誰かに向かい、そいつらはやおら銃を構えて立ち向かおうとし、すぐさま返り討ちにあった。

群青ぐんじょう! いるんだろう?」

 名前を呼ぶ声。日本語だった。

 おそるおそる壁から建物の外を覗くと、背の高い東洋系の男が手招きをしている。

 一歩、道路の側に出る。

 陽が高い。時刻はわからないが、日中であることは確かだ。

 あまりの青空に、一瞬、安全なのかと錯誤しそうになる。でも、ここが昨晩いた試合会場、エスタディオ・オリンピコ・パスカル・ゲレーロのすぐ近くだとするなら、カリ市内でも特に殺人事件が多い地域のはずだ。この、うねうねとくねった小路の多さ。アベニーダ・シルクンバラルの外側にちがいない。だからコロンビア遠征は嫌だったんだ。コパ・スダメリカーナのメンバーに入るなんて予想外だった。

「早く来い。もう……」

 男が声高に叫んだ次の瞬間、ズン、という重い音が響き、地面が大きく揺れた。妙に間の抜けた残響音とともに破片や土砂が霧雨のように降ってくる。何が着弾したんだ? 燃料に引火したのか焔がゆらめいて、男の許には辿り着けそうもない。

 戸惑うわずかのあいだに、ヘリコプターのばらばらとしたローター音、RPGの飛来音、さまざまな着弾音と爆音、ライフルの銃声が唐突に増えた。

 水平射撃。上空からの掃射。身を潜めた壁が跡形もなくなるのも時間の問題だった。

 ひとの灯りをを避けるねずみのごとく逃げ出した。

 碁盤の目のような区画整理がされているアベニーダ・シルクンバラルの内側とちがって、外側の区域では、見通しが悪く路に迷いやすいと聞いていた。袋小路もあるという。それでもいまは走るしかなかった。

 撃たれた弾が当たらないように、ジグザグに走る。追手がいないのだとしたら出来の悪いパントマイムにしか見えないだろう。でも、耳許を駆け抜ける銃弾、それにまとわりつく熱い空気、すべては本物だ。

 サッカー賭博を維持するために、ここまでやるのか?

 しかしその疑問はまちがっている。前世紀末から語り継がれるエスコバルの悲劇にならえば「オウンゴールをありがとうよ」のセリフとともに銃殺されるのは当然なのだ。

 問題はどうしてカリのチームを勝たせたのに殺されるかだが、だいたい答えはわかっている。相手は第二ラウンドをぎりぎりで通過したコロンビア第五代表。こっちはパラグアイ第一代表で予選をやすやすと突破した優勝候補。我々の勝利で相場が決まっていたのだろう。鉄板の結果を覆した戦犯を始末しようと動いたのにちがいない。

  

 不自然なほどに人影がない。この“戦争”の始まりを知ってそうそうに逃げ出したんだろう。がらんとしたほぼ無人の街で、カラフルなビルやアパートだけが陽光に照らされている。

 南米の例に漏れずこのカリもピンク色とか黄色とか極彩色の建物が多い。ありふれていて目印にならないかもしれないと思ったが、そもそも戻ることがないのだから、それは無意味な思索だった。すぐに気を取り直して試合中のように首を廻し、周囲を観察する。

「ディアゴナル51」と書かれた標識が見える。通りの名前なのだろうか。ここは比較的まっすぐ路が走っている。ということは、追手にも見えているはず――。

 危惧したとたん、近くのどこかで跳弾する音がした。狙われているのだ。

 しかし銃弾を恐れるあまり、大通りでまる見えになるのを避けようと、土地勘がないのに横路に入ったのが失敗だった。その路地は行き止まりになっていた。

 考えている暇はない。

 戻るか。

 このまま進むか。

 金属製のゴミ箱を足場に飛び跳ねて建物に這うように付いているパイプを掴む。そして壁をよじのぼり、向こう側へと降りた。

 すぐに、乗り越えてきたばかりの薄い壁が、どこん、どこんという音とともに崩れていく。必死になってのぼる必要はなかったというわけじゃない。もし向こうに留まっていたら、この壁のように吹き飛ばされていた。

 この貫徹力は五〇口径アンチ・マテリアルライフルか、それ以上の何かだ。人間なんかすぐに肉片だ。

 カリ・カルテルやコロンビア革命軍の側にしろ、政府軍にしろ、名もないサッカー選手の命なんて気にもとめないだろう。

 少し感覚が麻痺して、油断しかけたときのことだ。警戒することなく角を曲ったところで、気持ちの昂った兵士に出くわしてしまった。

 充血した眼。

 憤怒に駆られた頬のひきつり。

 銃を失い、血の混じった汗を流し、手にナイフを握りしめて怒りに駆られている。

 ぼくは後ずさった。そうするが早いか、兵士はナイフを突き出してくる。

 すんでのところで突きをかわした、つもりだった。刃の冷たさを感じる間もなく激しい痛みが走る。少々大きなかすり傷で済んでいることを祈りながら急いで走り、距離をとる。もう背後に逃げる余地はない。

 コマ落としの映像のようにやつの手が伸びて――刺されば――――死の――――――――停止――――――――――――――――そう意識する刹那、間近に、銀のきらめきが――

 湾曲した光がいっぱいに拡がる。

 ところが、視界は暗転した。

 次の瞬間、グォン、という音がするのと同時にやつが姿を消し、砂埃が舞った。

 呻き声のほうへと顔を向ける。

 そいつは横向きに寝転がっていた。右側の壁に叩きつけられ、すぐには起き上がれない。

 暗がりと思えたのは大きな機械の影。ガクガクとした唸りを立てて回転したユンボが静止する。こいつが薙ぎ払ったのだ。

 降りてきた男は兵士を一瞥するとちいさな拳銃で一発撃った。

 拉致されていた建物から走りだすときに呼びかけてきた、あの背の高い東洋人だ。痩せているが、一八二、三センチ以上はゆうにあり、力がみなぎっている。体格だけでなく、頬がこけ、眼窩が窪んだ顔にもすごみがある。四〇代後半相応のしわはタテに筋が伸び、痩せぎすの長身を強調して、老けた印象はない。くろぐろとした髪をオールバックに撫でつけ、二重まぶたに太い眉が乗り、鼻筋が通った端正な顔は表情がぴくりとも動かず、氷のような冷静さが感じられた。おそらく外国人が相手でも物おじしないタイプだろう。ぼくはその迫力にすがりたい気持ちになった。

「安心しろ。麻酔銃だ」

 男は訊ねてもいないことを言うとホルスターに拳銃を収め、こちらに手を差し伸べる。

群青叶ぐんじょう かなえだな?」

「はい」素直に答え、助け起こされるがままに立った。

「ついてこい。日本に帰るんだ」

「でも……」

「やらかしたんだってな」男は異議を間髪入れずに封じた。「決勝ラウンド一回戦で敗退決定のオウンゴールを献上したんじゃ、どのみちいづらいだろ」

 しわが刻まれたプレシデンテの顔を思い出す。実力不相応に準レギュラーの地位を保証し、ピッチの外ではサッカービジネスの手ほどきもしてくれた好々爺。

会長プレシデンテに断ってからでないと」

「そいつは難しいな」

「どうして?」

「贈収賄その他がぼろぼろ出てきて追われる身になった。試合のあとは行方不明だ」

 男に促され、疲れた脚を引きずって広い場所に出ると、迎えに来たらしいオスプレイ型のティルトローター機におとなしく乗った。

 救護班に止血され、ここまでに起きたことが現実だと気づき、何があったのかを確かめるべく、窓からカリの街並みを見下ろす。

 市内のあちらこちらから煙が上がっている。大穴も開いていれば、レーザーで溶かしたとしか思えないような構造物もいたるところにあった。

「大丈夫か? 顔が蒼いぞ」

 男が訊ねてきた。言われてみれば悪寒もする。どのくらい出血したんだろう。

 傷の深さはとスペイン語で訊くと、兵士は英語でよくわからないことを言った。なんだこいつ。アメリカ軍なのか?

 だんだん頭がまわらなくなってくる。うとうとしているときの感じに近くて……。

「おい、群青!」

 呼びかけてくる男の声は近くにあるのに遠く遅れてくるような、自分と見ているもののあいだに透明な膜がかかったような鈍い感覚に世界が覆われていた。

 ちいさいころに何度か味わった記憶があるのだけれど、どういう状態なのかよくはわからない。茫洋として眼の前を捉えられなくて、考えが思うように──ああ、だめだ。

 もう、いろいろと無理だった。

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