前回までのあらすじ

パラグアイのクラブ「リベルタ」に所属する日本人サッカー選手「群青叶(ぐんじょう・かなえ)」は、南米大陸二大カップ戦のひとつ、コパ・スダメリカーナ遠征に参加すべくコロンビア西岸の都市カリにやってきていた。

ベスト8進出をかけた決勝ラウンド、PKを外したことでサッカー賭博に大番狂わせの結果を招いた群青は、大量の資金流出を余儀なくされた麻薬密売組織の怒りを買い拉致される。もう終わりかと観念する群青。

しかしアジトに監禁された群青がいままさに処刑されようとした瞬間、建物の壁が壊れ、その場にいた組織構成員の大部分が倒れた。生き残った者たちも外からの攻撃で掃討される。

群青の名を呼ぶ日本語の声。助かったと安堵する間もなく、すぐ近くで大きな爆撃音が轟いた。これをきっかけに空と地上とを問わず火線が飛び交い、辺り一面は大規模な戦争状態に突入してしまう。その場にいては危ないと群青は駆け出す。ジグザグにカリの街を走り、銃弾をかわすうち、横路に逸れた彼を待っていたのは行き止まりだった。

命からがら逃げ出した群青は乗り越えてきた背後の壁を破壊され、なおも逃げる。そして曲がり角で麻薬密売組織側の兵士らしき男に出くわす。血走った眼には殺意が溢れていた。刃による一撃を避けきれずけがを負う群青を、間一髪のところでユンボが救う。

重機に殴打され気を失った兵士に麻酔弾でとどめを刺す東洋系の男は、先刻麻薬密売組織のアジトで群青の名を呼んだ、あの人物だった。男は群青をオスプレイ型のティルトローター機に乗せ、脱出する。機体は米軍のもののようだ……と、そこまでを認識すると出血のため朦朧とし始める群青。やがて間もなく、意識は失われた。

第一話 きみの夢はいま罰を置くYour dream put a punishment now

book_img 小学校から中学までほとんど苛められどおしだったうえに母が亡くなるといよいよ戦う気力はなくなり、ぼくは夏休みが来る前に学校へ通うのをやめた。
 親戚は母の死因を教えてくれなかったけれど、ぼくは自殺だろうと思っていた。自殺だと保険金はおりないはずなのにおかしいなとは考えたが、のちに自殺でも条件が揃えば保険金が支払われることを知り、この疑問は氷解した。
 ぼくを預かった親戚は迷惑そうだった。母は親族内で鼻つまみ者だったらしい。勝手に家を飛び出して子どもをつくり、捨てられても戻るあてもなく、貧しい暮らしに身をやつし、挙句野垂れ死んだ。親戚たちが思い描いた物語は固定された評価となっていて、真偽を知るよしもないぼくに反論は難しかった。
 母が残した保険金が、本来はただの厄介者であるはずの、ぼくの身分を担保した。
 叔父と叔母が迷惑そうな顔をしながらもぼくの居場所をつくったのはそういうわけだった。あきらかにぼくを嫌っている人間といっしょに住むのなら、俗にいう「施設」に行ったほうがいいやと思ったのだけれど、世間様に顔向けできないとかで家に住まわされ、サッカーをつづけることも許してもらった。
 秋になると叔父が突然、勉強しろと言い出した。体裁が悪いから高校に行けとの命令だった。
 世間体を気にするのは学校も同じで、変な評判が立つと悪いからと、出席日数を問わずぼくを校長の裁量で卒業させることに決めたのだという。不登校はたいしたテロにはならず、ただごみのように箒で掃かれていくだけなのだ。
 高校はしょっぱなから馴染めなかった。五月の声を聞く頃にはまた学校から脚が遠のきかけ、サッカークラブに通うことで校舎から解放される放課後を心の支えに、なんとか通いつづけた。ところが二年の春にそのサッカーでヘマをやり、外に出る気がなくなって、半ばひきこもりに。でもそのときあのひとが――――ぼくを――――――――

 

 気がつくと病院のベッドに横たわっていた。
「ここは……」
 その疑問に見憶えのある男が答える。
「サンディエゴだ」
 カリを飛び立ったティルトローター機は急いで太平洋上へ抜け、母艦に着艦。船ごと北上したあとあらためて短い距離を飛び、メキシコ国境にもっとも近い米海軍基地にやってきた。
 男は松重たかしと名乗った。飛行機での移動に耐えられるようになるまでしばらく加療する必要があること以外に松重は多くを語らず、ぼくを寝かせる。松重が何者なのか、なぜアメリカ軍を動かすことができたのか、疑問は遮られたままだった。
 一〇日間ほどの長い”トランジット“を終えたぼくは日常を取り戻すべく、松重とふたり、アメリカン航空で成田へと向かう。その途上で、松重が少しずつ事情をこぼしていく。
「じつは、親爺さんのお迎えが近い」
 松重は表情を変えずに言った。自分をこさえた男が、東京のサッカークラブ、銀星倶楽部のオーナーであることは知っていた。しかし妾である母とふたり、本家と離れて育ったぼくは父親の顔を知らない。それは向こうも同じだろう。死ぬ前にひと目逢いたくなったのだろうか。
 松重は移籍の履歴を辿り、ぼくがパラグアイのクラブ、リベルタに在籍していることを掴んだ。コロンビアのカリに着いたのは試合の当日。カリ・カルテルとコロンビア政府軍が一触即発の事態で、ぼくは既に誘拐されたあとだった。そこで政府軍の行動に便乗して救出作戦を企て、近海を航行中の米海軍に移送の協力を仰いだ、というわけだ。
「おまえさんが拉致されたのと麻薬戦争とは本来別物なんだが、運悪く――いや、運よくかな、いっしょになった」
「建物の壁を壊したのは松重さんですか」
「ああ。正確には政府軍の別働隊がやった」
「ぼくも死んでいたかもしれない」
「いや、それはない。追跡発信機を忍び込ませて位置は特定していた」
 思い出した。壁を這う蜘蛛。
「あれか……」ぼくがつぶやくと、松重は頷いた。
 軍事衛星を使って地球の真裏にいる松重をサポートしていたのは日本公安の電子捜査班だったという。そんなやつらを働かせるなんて、いったいこの男は何者なのだろう。
 少々現実離れした松重のストーリーテリングを寝物語にぼくは帰ってきた。
 コロンビアほどではないにしろ、二〇年代の騒乱グラン・デサストレを経ていくぶん様変わりをした首都近郊の情景を、成田、羽田間を結ぶ新都心線が通り抜けていく。部分的に建築物が大きく損壊している街がいくつもあり、ゴーストタウンが拡がっていた。放棄された駅はプラットフォームに錆が浮き、ただ通過するだけになった。
 無人の街のなかには、放棄区域ゾーンもある。情報統制で原因ははっきりとはわからないが、おそらく細菌兵器の散布や放射性物質の漏洩、あるいは小規模の核爆発によって、居住に適さなくなった立ち入り禁止区域のことだ。その入口と出口には“関所”が設けられ、車両の臨検がおこなわれる。松重がこの日の朝刊から顔を上げると、“関所”で官憲が乗り込んできて、ぼくらはパスポートをあらためられた。なぜかぼくのパスポートにはコロンビア、パラグアイ、ブラジル、アメリカの出入国記録がきちんと記載されており、お咎めなしに通行できる。
 やがて不可視モードを搭載した特殊仕様の列車は東京のダウンタウンを抜け──ここにも戦時から復興していない場所があり、一部では徐行運転になる──光学迷彩を解いたのち、新東京駅へと辿り着いた。紛争で寸断された東京都内の移動は二〇年前のように自由ではなく、都心付近の都営地下鉄線は、主に成田から羽田へ、羽田から成田へと向かう乗客向けのものとなっていた。陸路にも危険な部分が多い現状では、ヘリをチャーターできない身分の大半の者には、官民問わず頼みの綱だ。新都心線の車両に最新技術の粋が尽くされるゆえんだった。
 スカイツリーと押上を外縁部とする都営地下鉄圏の内側でも治安が安定しているとは言いがたいけれど、ここまでくればそうそう危険な目に遭うことはない。まるで未知の怪獣に戦いを挑む前線基地のように強固な鉄とコンクリートに覆われた地下要塞に等しい新東京駅のコンコースをくぐり抜け――戦時中は実際に核シェルターとして機能していた――深さ七〇メートルの底から何度もエスカレーターを乗り換えてようやく地上に出ることができた。
 午後三時を廻った頃、ぼくは松重の運転する車で品川区の上水流かみずる邸へと連れていかれた。何年か前までは駒沢公園の近くに門から玄関まで三〇〇メートル以上ある大邸宅を構えていたらしい。比べてしまえばちいさな家であっても、ぼくのような貧乏人からすればお屋敷と言って差し支えない威容を誇っていた。門から玄関までは短いながらも石畳が敷き詰められ、いまどき珍しい和風の木造家屋に、気安く入れない雰囲気をつくる。
 そんな空気におかまいなしに、松重は勝手知ったる態度で玄関の引戸を開けようとする。でもあっけにとられるぼくの眼の前では、松重がふん、ふんと、鼻を鳴らしながら力を込めるだけで、戸はいっこうに開かなかった。
 そうとう立て付けの悪い戸は八度目の挑戦でようやく横に滑ってくれたが、そのかわり玄関の上にかけてあった樫の木でできた大きな表札が落ちてきた。
「危ねっ!」
 間一髪、松重が軽い身のこなしで避ける。もし頭に落ちていたらけがをしていたところだ。
 物音を聞きつけてか、廊下から若い女が姿をあらわした。
 あっ、と女の口から驚きが漏れる。押さえようとする手が、絵画科の生徒がよく地塗りに使う“ジェッソ”で整えたキャンバスのように白い。
 昔セミロングだった漆黒の髪は肩の先まで伸びて暴れるようなウェーヴのかかったベリーロングになっている。スーツ姿はあいかわらずで襟なしのシャツからこぼれる胸元が眩しかった。タイトスカートはパンツになっていたけれど、引き締まった脚が際立ち、スタイルのよさを維持していることがわかる。一七二センチの身長はどうしたってひと目を惹く。
 五年ぶりに逢う上水流かなでの、どうしてここにいるのかという疑問はぼくの側にもあった。
仏頂面というのか三白眼というのか、いかにも興味がなさそうな素振りの松重だけが、落ち着かないぼくらのあいだに分け入ってくる。
「なんだ群青。本家の人間とは逢ったことがなかったんじゃないのか?」
「親爺ははじめてです。姉には逢ったことがある」
 ぼくは都内のクラブに通っていたから、銀星倶楽部のオーナーである親爺とはサッカーの行事で偶然遭ったとしてもおかしくはなかった。でも顔をあわせたことは一度もない。奏は──忘れたくとも忘れられない。
「……そうか、まあ上がれ」
 そう言う松重の前を奏が塞いだ。
「ちょっと待ってください、松重さん。どういう用件で叶を連れてきたんですか」
 奏は言った。松重は堂々と彼女を見据えて答える。
「あなたが断った件ですよ」
 ぎゅっと拳を握り、奏は視線を宙に漂わせる。松重とぼくはその脇を通り、板張りの廊下を抜け、一六畳ほどの和室へと歩を進めた。
 ふすまを開ける。畳に敷かれた、地味な緑灰色ながら金糸の刺繍が入った掛け布団のなかに、写真でしか見たことのなかった上水流かなめが横たわっていた。
 恰幅がよかっただろう肉体はしぼみ、ふとんに力なくくるまっている。ただし深いしわが刻まれ、白い髭が首まで伸びた顔に埋まる眼は爛々と光っていた。
 ぼくと松重が枕許へと赴くと、呼ばれるまでもなく顔をこちらに傾けた。
「叶か……」
「はい」
 傍に寄ると、異様な匂いが漂ってきた。内臓の病であることはあきらかだ。
「おまえ、銀星倶楽部の社長になれ。詳しくは遺言状に書いてある」
 弱々しいつぶやき。今際の際の頼みに流されるかと思っていたが、自分でも不思議なほど反発心がわいてきた。
「ふざけんなよ」それに対する反応はない。ぼくはつづけた。「いまさら探して……母さんがどれだけ苦労したか、わかってんのかよ」
「……知らん」
 反射的に振り上げた拳は、松重の頑健な手によって抑えられた。領はいっさい動じることなく、ぼくに遺言を残していく。
「いまさら。いまさらだ。そしていまおまえに残してやれるのは銀星倶楽部だけだ」
「そんなもの……」
「南米に行っていたんだそうだな」
「ああ。高三のときから」
 思いきりを強調したつもりが、軽くあしらわれる。
「遅い。本物の男なら一五歳で渡っているところだ。おまえの年じゃ思い出づくりのサッカー留学みたいなもんだ」
 ぼくが唇を噛みしめると、領の顔に、わずかに笑みが浮かぶ。
「悔しいか。どうせ根無し草みたいにぷらぷらして球を蹴っていたんだろう。同じ野垂れ死ぬなら、いっぺんきちんと働いてみてからにしろ。死に場所は用意してやる」
「まだ死ぬつもりはない」
 つい先日死にかけたばかりだというのに我ながらつまらない返事だと思う間もなく、それを耳にした領は嘲るような笑いを漏らし、その律動に耐え切れず咳き込んだ。口の端に血が滲む。
「逃げるのか」
「……なんだって」
「逃げつづけてどこへ行く。サッカー選手になりたくてもなれず、命からがら日本に帰ってきて、仕事のあてもないんだろう。いつまでそうしているつもりだ」
 言い返そうとして言葉を探す。何も見つからなかった。
 少し考えさせてくれ、と言おうとしたぼくの心を見透かすかのように、領は、
「世界は待ってくれない。ぼやっとしていたら飢えて死ぬ。働いて稼げ、わかったな」
 そこまで言うとからだを横たえた。松重が覗き込む。
「大丈夫ですか」
「ああ」領は答え、それきり、静かになった。
 夜になって領は再びぼくを枕許に呼んだ。耳をそばだてても領の声はかぼそく聞き取れない。午後と同じように社長になれと言っていたのかもしれないし、なにか気遣うようなことを言っていたのかもしれないけれど、聞こえないのでは想像にしかならない。意思をはっきりと確かめられないまま、領はあくる日の明け方にゆっくりと息を引き取った。
 すぐに互助会が入ってきてお通夜の準備をはじめる。亡骸を送り出すまでの忙しなさは、いくぶん残された者の気持ちを和らげる役に立つ。慌ただしく働くうち、まだ陽の低い午前に縁側に立ち、松重とふたりになる機会があった。
「で、どうするんだ」狭い庭から視線を戻した松重がぼくの肩に手を置く。
「どうするって……何がですか」
「社長就任の話だよ」
 松重はこともなげに言った。
 それきり沈黙する。チュン、チュンと、この秋に生まれたのではないかと思える元気のいいすずめの鳴く声が響くあいだに、ぼくはその言葉の意味を理解した。
「って……それ、本気じゃなかったってことですか?」
 ぼくはちょっと憤慨した。わざわざあんな大掛かりなことをして、東京に連れてこられ、遺言を聞いたのに?
「親爺さんが本気じゃなかったとは言わん。周りもそうだ。いちおう群青叶が社長に就任する方向で動いている。ただし、それを決めるのはおまえさんだ」
「ぼくが……?」
「ああ。親爺さんにおまえを逢わせた時点で、おれとしては義理を果たしている。基本的には自由だよ、ここからは。どうする、群青叶」
「どうって」いきなり梯子を外されても、戸惑うばかりだ。「社長になるのを辞めてもいい?」
「ああ」
「その場合どうなるんですか? 姉が?」
「いや。最初にちらっと言ったかもしれんが、理由があって彼女はならないよ。おれを含め、残された常勤役員の誰かがなるだろうな。監査役を合わせて候補は三人しかいないけど」
 ぼくは松重の言葉を訝った。
 本心はどこにある? まさか、ぼくがいないほうが都合がいいのか? 自分が社長になれるし。それでぼくに翻意を促して――
 いや、ちがう。それはいくらなんでも浅い。同じように、反発を誘って社長になるよう仕向けているというのも浅い。フラットな口調とポーカーフェイスからは、純粋にぼくの意思を問うているようにしか受け取れない。
「松重さんは社長になりたいんですか」
「どうかな。おれはどうでもいい」松重はたばこを灰皿に押し付けると最後の煙を吐いた。「ひとつ背中を押してやろうか。死に際の感情にふれてちょっと心に残るものがあり、仕事に魅力を感じもし、ちょっとやる気になりはじめていた群青くんに」
「……」
「経緯はあとであらためて説明するが、おれは健全化できるならそうするし、だめなら整理する役目なんだ。だからたぶん、最後は粘らない。もし銀星倶楽部をどうしても残したいなら、自分で社長を引き受けたほうがいいだろうね。再生したいのか、それともそこまで思い入れはないからつぶれてしまってもかまわないのか。どっちなんだい」
 その瞬間に去来したものを感傷と言ってもいいだろう。
 母もいない。父もいない。どうでもいいことだけれど、向こうの本妻も愛想を尽かして出ていったらしい。屋敷も競売にかけられる。プラスの遺産はほとんどなく、残るのはこの銀星倶楽部だけ。そう考えたとたん、失いたくないという思いが急に溢れてきた。決心を鈍らせる要素は何もない。
「やります」ぼくはとうとう観念した。

 

 ごく少数の身内が参じた告別式の日は、朝から青空が鮮やかだった。
 斎場の庭、火葬ののちの正午前、煙突から立ち上る熱気でできた陽炎を見上げる。遺灰を受け取る奏にぼくは訊ねた。
「どうして断ったの。社長の話」
 レースとフリル、リボンが入ってヴィクトリア朝の雰囲気があるブラックフォーマルに身を包んだ奏は遺灰を持ったまま眼を閉じ、少し経ってから言葉を発しかける。口の重さも手伝い、いつものスーツ姿のときとはちがって闇の世界に君臨するお姫様のようだ。心なしか唇は白く肌は蒼ざめ、長い睫毛と二重まぶたの黒さが鮮やかだった。
「まあ……いろいろだよ。いまのわたしには地位もあるしね」
 ああ、そうだ。奏は男みたいな話し方をするんだった――ばりばりと仕事ができそうな彼女らしくて、最初からそれで言うことをきかされたんだ。
 記憶を思い起こすついでに、ぼくはさらに訊ねる。
「地位?」
「うん」奏は豊かな黒髪をくしゃ、とわしづかみにすると、諦めたように大きな息を吐く。「わたしはいま――インテルクルービの専務なんだ」
「えっ」ぼくは奏の言う意味が理解できなかった。「なんだよそれ」
 デスポルチーボ・インテルクルービの一員であること。それは銀星倶楽部と東京の覇権を争う仇敵であることを意味していた。
「やらなければならないことがあるから」
「わけがわからないよ」
「これ以上はいまは言えない」少し考え、それでも結論が出ないというように首を振る。「うん……なかなかひとくちには説明できないな。話さなけ ればならないこと、話したかったこと、話したくないこと、うまく整理できないし、どうしたって大切な何かが零れてしまいそうだ」
「姉弟で争うんだぜ? どうしてそうなるんだよ」
 ぼくの問いを奏はぴしゃりと跳ね除ける。
「よくあることだ。もうわたしは学生とのはじめての接触に喜ぶ一介の教育実習生ではないし、おまえも背伸びしたがる高校生じゃない」
「でも……」
 秋の陽射しが遮られた。松重だった。
「姉に甘えるのはそこまでにしておけ」松重はぼくと奏を交互に見比べる。「こいつは裏切り者だ。先代も亡くなったからには、きょうからは敵同士だ」
 何かを言いかけた奏は急に何かに気づいたようになり、そして寂しそうに嗤った。
「そうだな。わたしは……裏切り者だ」
 求めるサッカークラブ像にちがいがあると、父の仕事を手伝っていた奏が銀星倶楽部を辞めたあとに、事が動いた。
 上水流領が会長を務める月光運輸グループは、東京オリンピック開催に乗じた大規模規制緩和ののちに出現した若き富豪、神足一歩によって乗っ取られた。やむをえず、残された企業のなかでも比較的大きな銀星物産を運営母体にオーナー社長として自ら銀星倶楽部の運営に乗り出したが、からだを壊してしまった。
 外部から経営者を招くとさらに混乱、困窮し、経営は破綻しかかった。
 応援要請を受けたリーグ事務局は松重崇を「再建屋」として派遣した。領の信頼を得た松重は奏の説得にあたったものの、そのときにはもうインテルクルービへの「移籍」を決めていた。そこで松重は領と相談し、ぼくにあとを継がせることにした。
 ここまでが、出棺の翌日、クラブハウスに向かう車中で松重に聞かされた一部始終だった。
 晴海埠頭にあるLEVELゼロのまっさらな土地に湾岸スタジアムは建設されていた。東京オリンピック終了後に七万人を収容する球技専用競技場となったメインスタジアムの傍らには、規定で必要とされる数以上のサブグラウンド群が寄り添い、さらに複数のビルとクラブハウスがある。銀星倶楽部はそこにオフィスを構え、サブグラウンドで練習をおこなっていた。
 この一帯はガーデン・オブ・ザ・ベイと呼ばれている。奥には倉庫地帯が拓け、ひと区画ほど表に行くと、そこにはオフィスビルと商店が立ち並ぶメインストリートがある。新興街だけあって道は王族のパレードを想定したかのように広く、建物は軒並みお化けのごとく巨大だ。
 橋を渡ると、時間を持て余した中流階級以上の夫人が集う繁華街、銀座を中心に再開発された新東京地区が拡がっている。夜は高級クラブに男が群がり、女は女でつばめたちに甲斐がいしく世話をされ、眠る間もない。不思議なほどに双方の交流は少なく、埋め立て地側には、都心の雑然とした賑わいとは隔絶された静けさがある。新東京の背後にあるアップタウンに林立する高層タワーを海越しに眺めると、タワーとふつうのビルとの境界線を蚊のようなティルトローター機がひっきりなしに飛んでいるのがわかる。垂直離着陸機による監視とパトロールは首都防衛の要だった。戦時中に組織された公安部直属の特警が、自衛隊にも米軍にも頼らずテロリストや反体制ゲリラの駆逐に務めている。ティルトローター機は特警所有のものだという。道理で紺色に塗られているわけだ。
 手前にあるこの湾岸はと言えば、常時何人かの警官が個人用の垂直離着陸機で低空に浮いている。さすがに車が空を飛ぶような荒唐無稽はないものの、二〇年代に入ってからは先端技術の実用化に加えて枯れた技術の復活が相次ぎ、ティルトローター機だけでなくフライングプラットフォームの類で警官個人がそこらを飛び回るようになっていた。稼働時間が一時間弱と戦争には不向きで、一度は二〇世紀に消滅した機械であっても、パトロール用なら問題はない。テロが起きるのは大都市だ。小回りが利いてテロリストの手の届かないところに浮かぶ警官は多ければ多いほうがいいという理屈で予算案は議会を通過した。そのおかげで埋め立て地の平和が守られているわけだ。
 もっとも、醜悪な光景は海の上にはない。この辺りにはフライングポリスマンを意に介さずヘッドフォンから聴こえてくるガイダンスに集中して運動するランナーくらいしか見当たらないから、警官も働きがいがないだろう。健全な地域を走る健全なランナーの向こうに視線を送ると、湾岸スタジアムのサブグラウンドが視界に入ってきた。
 車を降りると適当に練習を観ておいてくれ、と松重に言われ、そのままぼくは天然芝のコートに放置された。
 午前練習に励む選手たちはコートの外周を走っていた。コーナーに差し掛かった際、若いゴールキーパーが倒れたコーンを直すと、先輩らしき小柄なフォワードに怒られた。
「おめえ、よけいなことすんなよ」
 どうやら少しでも走る距離を減らそうというベテランの知恵らしかった。
 練習はまったく集中を欠き、シュートも直接フリーキックも決まらない。
 全体練習を終えてクールダウンに入ったのを見届け、クラブハウスの玄関に行くと、さっさとシャワーを浴び、昼ごはんも摂らずに帰ろうとする選手に出くわした。まだその存在を知られず空気のようなぼくを気に留めない彼は、社員に声をかけられて立ち止まる。
「どうしたの?」
「いやー、脚痛くってさ」選手はつらそうな表情をつくりながら答えた。
「午後練休み?」
「うん、まあ」
「ほんとうは?」
「人妻と不倫デート」
 選手はにやりと笑った。社員も笑う。「うまくやれよ」と言うと、ぽんと選手の腰を叩いた。
 お世辞にも士気が高いクラブとは言えないようだ。
 ぼくは外国人監督の姿が見えないことが気になっていた。指揮を執っていたのは日本人のコーチたちだ。
「監督に会わせてもらえませんか」
 執務室に入るなりそう訊ねるぼくを前に、松重は視線をデスクに落とし、芝居がかった様子で書類を置く。
「それは……無理だな」
「どうして」
「たったいま馘首くびになったからだ」
 ここに来るまでにざっと呼んだ銀星倶楽部関連のニュースには、乏しい戦力で残留をほぼ確実にする勝点を稼いだ、と書いてあった。その監督を終盤戦のこの時期に解雇したのだという。
松重の説明は主に監督の価値が世間の評判よりも低いと訴えるものだった。
 残留させたから切るんだ。もう用済みだ。年俸が高すぎる。契約金に違約金の設定がないから、いま切れば残り二カ月の給料を払わずに済む。後任はライセンスを持ってる育成部の老松さんにやってもらえばいい。タダだからな。チェシュラックは名将なんかじゃないぞ。クラシカル戦術しか持ってない根性論の耄碌もうろくじじいで、ヨーロッパでも小うるさいってうとまれていて、仕事がないところを獲ってきたんだ。だからギリギリ獲れるくらいに相場もそうとう下がっていたし、こっちの有利に契約することができた。もう十分だ。選手にも社員にも煙たがられてる。監督だって選手だって挿げ替えの効く駒でしかないんだ……
 すぐには受け入れがたい内容だった。正確に是非を判定するには、もういっぽうの当事者からも事情を聴きたい。まだ帰っていなければと、ぼくは監督――カジミエシュ・チェシュラックを探しに駐車場へと向かった。
 大股の急ぎ足で歩きながら彼のことを考える。
 鉄の規律を教え。
 労働するサッカーを尊び。
 愛弟子たちに敬愛され畏れられるゴッドファーザー、頑固で偏屈な男。
 海外市場で浮いた存在となっていた老体。理論が古いと退役軍人扱いをされながら、一日に九〇分×三本の練習試合をやらせてチームを統率する鬼。
 彼は駐車場にいた。薄い灰色の外套を着て、そのポケットに手を突っ込み、車の鍵を探しているようだった。がっちりとした幅広の顎に乗った顔はいかめしく古めかしい。しわの数は多いが肉厚でそのぶん肌がつやつやと張り、健康そうに見える。彫りが深く眉の下には大きな影。その眼に鋭さはあるものの、どこか優しげな感じが漂っている。鼻から下に伸びる人中線と小鼻から斜めに伸びる法令線ははっきりしていて、頬骨の突起と相まって顔を立体的に見せていた。そして長い口。一文字にきゅっと結ばれ、顎の広さ、四角いかたちを強調するかのように意思の強さをあらわしている。
 身長が一九〇センチはありそうな肉体は肥えたぶん、さらに体積を増して大きくなり老いてなお迫力があった。その引力に引かれるように、ぼくはふらふらと歩き、近づいていく。
 ポーランド語を知らないぼくは監督をどう呼んでいいかわからず、彼のキャリアを思い起こして「ミステル」と話しかけた。
「きみ、イタリア語がわかるのかね」
 チェシュラックは取り出した鍵をポケットに戻し、イタリア語らしき言葉で口を開いた。
「いえ、残念ながら。スペイン語をちょっと」
「わたしはイタリアだけでなく、スペイン三部のクラブでも監督をしたことがある。短いあいだだったがドイツやトルコ、ギリシャでもね」驚いたことにチェシュラックは笑みすら浮かべた。「で、なんだね?」今度は確実にスペイン語だった。
「あなたが解任されたと聞きました。撤回させましょう」
 チェシュラックは大きく首を横に振った。
「やめておこう」
「どうして?」
「文句を言う筋合いではないからだ。いつ馘首を申し渡され、クラブハウスを出ていってもいいように、かばんに荷物を詰めておく。それが監督というものなんだ」
「それでは困るんです」
 馘首になった本人以上に切迫した様子のぼくを、さすがに彼は訝しんだ。
「きみは誰なんだね?」
「あなたと入れ替わりに、このクラブの社長になる男です」
「なんと……」チェシュラックは近づくと、ぼくの両腕を外側からぐっと掴んだ。自分は日本人のなかではちいさくないほうだと思うのだけれど、チェシュラックにかかっては子どものように揺り動かされてしまう。「気を確かに。やる気のない人間にいくら言ってもむだだ。残念ながら、もうわたしの言葉は彼らには届かない。きみが社長になったあとは、とにかく選手や社員たちにやる気を出させるようにしてくれ。それが原動力だ」
 まだ彼が話を聞いてくれそうな気がして、ぼくは質問を重ねた。
「このクラブはどうなっているんですか?」
「聞きたいかね」
「ええ。とても」
 ぼくが頷くのを見てチェシュラックは意を決し、口を開く。
「ならば言おう……わたしは罪を告発しようとして、クラブの敵にさせられた。道理など通らぬ。ここは紛うことなき魔窟だよ」

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