前回までのあらすじ

パラグアイのクラブ「リベルタ」に所属する日本人サッカー選手「群青叶(ぐんじょう・かなえ)」は、南米大陸二大カップ戦のひとつ、コパ・スダメリカーナ遠征に参加するべくコロンビア西岸の都市カリにやってきていた。
ベスト8進出をかけた決勝ラウンド、PKを外したことでサッカー賭博に大番狂わせの結果を招いた群青は、大量の資金流出を余儀なくされた麻薬密売組織の怒りを買い拉致される。
しかしアジトに監禁された群青は銀星倶楽部常務、松重崇(まつしげ・たかし)によって救い出される。松重は群青を探しに日本から渡ってきていたのだ。

帰国した群青はプロサッカークラブ「銀星倶楽部」オーナーを務める実父、上水流領(かみずる・かなめ)から後継者になるよう告げられる。死期の迫った上水流は、妾の子である群青に白羽の矢を建てたのだ。群青はそれまでの不遇を恨み反発するが、松重の説得もあり、社長となる運命を受け入れる。

腹違いの姉である上水流奏(かみずる・かなで)はライバルクラブ「インテルクルービ」の専務だった。動揺する群青。そして銀星倶楽部へと赴くと、ポーランド人監督カジミエシュ・チェシュラックの電撃解任――。
右往左往する群青にさらなる追い打ちをかけたのは金髪碧眼の美女、栢本里昴(かやもと・りよん)だった。銀星倶楽部の女子部にあたる同好会的組織、GEKKOコンピュータシステムサッカー部キャプテンの里昴は、いきなり解散させられた部を復活させるよう、群青に直訴したのだ。激しい剣幕にただうろたえるばかりだった群青は、しかし心労のあまり倒れこむ里昴を目のあたりにし、奏の協力も得ながら解決策を模索し始める。

そして深夜。驚きつづきの一日を締めくくるように、銀星倶楽部から解雇されたばかりのチェシュラックがインテルクルービの監督に就任するというニュースが、群青を打ちのめした。

第三話 真夜中にIn the dead of night (Complex mind to be released)

tedd02bn 翌日の記事はさらに詳細に、事の次第を伝えていた。

 

◆チェシュラック氏、電光石火の再起
 鬼の目にも涙──三一日、インテルクルービクラブハウスで次期監督就任記者会見に臨んだカジミエシュ・チェシュラック氏は、着席するなり眼を潤ませ、開口一番「わたしは帰ってきた……」と感慨に充ちた言葉を漏らした。
 無理もない。今季降格まちがいなしと言われた銀星倶楽部を補強もなしに急成長させ、残留がほぼ決まろうかという頃になって突然の更迭。「老体に鞭打って日本に来てくれた名将に失礼だ」「銀星倶楽部は屑」と、他クラブのファン、サポーターからも不可解な監督人事に抗議の声が上がったほどだった。
「まだクビになったばかりで嘆くほど時間も経っておらず、泣く涙も湧いてこないが」と笑って前置きしたチェシュラック氏は、目尻に光るものをたたえながら、次のように喜びを表現した。
「やはり首都のトップクラブはいい。こうした日本の環境はまさに感涙ものだ。若い日本人選手には、欧州2部をめざすより、インテルクルービに入ることをおすすめする」(チェシュラック氏)
 電撃的に銀星倶楽部を解雇され、湾岸スタジアムをあとにしたチェシュラック氏にインテルクルービからオファーがあったのは、まさにその直後。急遽、夜に会談の席を設け、次期監督就任が決定。来季も「東京」のピッチで指揮棒をふるうことになった。
「信じられないことばかりの一日だった。言葉がない、というのはこういうことを言うのだろう。まさか東京のフットボールシーンに戻ってこれるとは夢にも思わなかった」
 日本はもうこりごりと、解任直後はサッカーから足を洗おうとも考えた。しかしオーナーの神足一歩会長をはじめとしたクラブ首脳陣の熱心な説得と、かつての弟子でもある「ウクライナの矢」ヤロスラーヴ・シェウチュークを獲得すれば考えてもいいという条件をクリアすると約束した強化部の誠意がチェシュラック氏の心を動かした。
「フロントはすばらしい仕事をしてくれそうだ。いまや優勝をめざすための、ありとあらゆる条件が揃いつつある」
 自身の年俸は銀星倶楽部時代の四倍以上となる二億円を提示された。来季獲得する外国籍選手はシェウチュークをはじめとして一〇億円級ばかり。気鋭の実業家として名高い神足オーナーの潤沢な資金が流れ込むインテルクルービにバジェットの不安はない。
 それだけではない。今季にチェシュラック自身が培ってきた「財産」が、彼を救いそうな気運が高まっている。
「既にチェシュラックは現在の銀星倶楽部先発メンバーから数人をリストアップ、強化部と戦術プランも含めて協議に入っている」と、一部の関係者は明かす。経営難の銀星倶楽部は主力選手のほとんどを放出すると見られ、チェシュラックに心酔している「チルドレン」があとを追い雪崩れを打つように加わる可能性が高いというのだ。その際も豊富な資金を背景にした高額年俸がモノを言う。
 新体制になり、本格的な強化に乗り出したインテルクルービは、来季を世界進出戦略最初のシーズンと位置づけている。「悲劇の名将」チェシュラック次期監督は銀星倶楽部へのリベンジを果たすと同時に、インテルクルービを念願のリーグ初優勝、そして世界へと導く。

 

◆前嶋監督、今季は残留
 前嶋忠明監督は練習終了後、今季は公式戦全日程終了まで指揮を執ることをあきらかにした。
「米長孝宏ゼネラルマネージャー(以下、米長GM)、チェシュラックさんとも話し合いましたが、まだ順位をどこまで上げられるかわからないし、今季は今季でやりきったほうがいいだろうということになりました。チェシュラックさんはまったく嫌味抜きに、協力を惜しまないと言ってくれています。来季に関しては、クラブにはコーチングスタッフか強化での残留を要請されていて、たぶんそうなると思う」(前嶋監督)
 米長GMは「今季はチェシュラック監督からいろいろな知見を吸収し、来季はクラブに籍を置いたまま欧州で修行してもらえれば」とプランを明かしている。米長GMによれば、強化部は若手指導者のホープとして前嶋監督の資質を高く評価。しかし今季2位以内というノルマを達成できる見込みが薄くなり、その強いプレッシャーに耐えられるかどうかが未知数であること、かつ取りこぼしが多く目標としていた「勝てるチームづくり」が進んでいないこと、ボールは支配できるが得点数が増えないこと──を理由として監督交替を考えていたところ、ふってわいたようにチェシュラック氏がフリーになり、獲得を急いだのだという。
「どれだけ資金が潤沢でも、欧州で評価の高い監督を獲ってくるのは至難の業です。チェシュラックさんは先日お亡くなりになった銀星倶楽部の上水流領前社長がサッカー好きならではの熱意で口説き落としたそうで、その意味では彼らにお礼を言わないといけないですね」(進藤武仁社長)
 先例に倣い、サッカーにかける思いで口説いたインテルクルービに運が巡ってきた。
「チェシュラックさんは気難しいとか時代遅れとか、いろいろと言われていますが、規律を植え付けて勝てるチームをつくる術に長けています。来年はスター選手が溢れかえって統制が難しくなる。そこで選手たちに言うことを聞かせるカミナリ親父の役は、チェシュラックさんにしかできません」(上水流奏専務)
 チェシュラック氏といううしろだてを得たことで、前嶋監督も強気になり、プレッシャーから解放されているという。来季の成功のみならず、今季最高の結果を得るためにも、チェシュラック氏の次期監督就任は有利に働いている。

 

 ゆうべ、奏が急いでいた用件はチェシュラックとの会談だったのだろう。記事に書かれていることのどこまでが事実かは知らないけれど、よくもオーナーからゼネラルマネージャーまでその日のうちに揃えられたものだ。まるで解任されることを予期していたかのような手際のよさだ。
 翌日、松重とは朝から度々この件でやりあった。みすみす商売敵にチェシュラックをくれてやるとは何事だとぼくが言えば、必要とするものが向こうとウチとでちがっただけだと松重が反駁はんばくするその繰り返しを、ぼくらはクラブハウスの廊下にまで響かせつづけた。
 サッカーではひとつのミスがきっかけになり、失点することが多い。遡れば中盤で軽いプレーをしてボールが奪われたから、対応が後手にまわり、シュートを決められてしまったのだと後悔する。それが致し方のないミスなのか、防げたはずのミスなのか。チェシュラックを奪われるのは避けられた事態だったのではないか。
 五日後の一一月六日月曜日、身内への不信感を募らせながら出席したフットボールリーグ理事会でぼくは経営状況を報告、次年度内に債務超過解消とリーグ事務局から融資された二億円の返済というノルマをあらためて告げられた。
 経営不振に陥ったプロサッカークラブの対処法は、直接的には選手や施設など資産を売却、自治体や地元企業からの寄付を募り、その後に繰越欠損金を減資で解消、うしろだてとなってくれそうな企業への第三者割当増資で再出発を図るというパターンが相場になっている。問題はそれをテンプレートどおりに運べるかだ。二〇年代に入ってからは周囲に助けてもらえずそのまま潰れたクラブが三つあった。
 カツカツになるのは当たり前にしても、その状態で試合に勝たなくてはいけないというところが難しい。ただ試合をこなすだけならともかく、経営が不安定な状態でサッカーに身を入れろというのは無茶な話だ。しわ寄せが行く現場との軋轢を避けつつ、どう彼らを御すればよいのか。
 ピッチの外と内を同時に軌道に載せていく算段で頭のなかをいっぱいにして議場から出ると、奏に呼び止められた。このあと別のフロアでおこなわれる実行委員会には各クラブの社長または理事長が招集されているが、来季からの制度変更もあり議題が多く、オブザーバー同伴が招集する側のリーグ事務局から求められている。そのため、ほとんどのクラブは社長と片腕となる専務か、または常務とのコンビで会議に臨むことになっていた。奏は進藤社長の付き添いだろう。漏れ伝わってくる噂を聞くかぎりでは進藤氏は出向社長の域を出ない働きぶりで、実質的には奏が取り仕切っているのに近い状態らしい。あるいは社長が変なことを言わないように監視することが、奏の主な任務なのかもしれない。
「チェシュラックの件はやられたよ」
 ぼくの言葉に奏が微笑む。
「なんのことかな」腕を組み、重心をかける脚を逆にすると、腰のくびれも反対側に回る。その様子を見てぼくは彼女がタイトスカートを履いていることに初めて気づいた。
「部屋に来ているときはおくびにも出さずに、数時間後には交渉成立」ぼくはつづけた。
「それはそうだろう。生き馬の目を抜く業界だ、ぼやぼやしていたら寝首をかかれる」
「気をつけるよ」
「まだまだ、こんなものじゃ終わらないぞ。四六時中水面下で動いているんだからな」
「誰が?」
「誰もが……」ぼくの背後に何者かを認めた奏の視線が持ち上がる。「ちょうどいい、紹介しよう。ひと筋縄ではいかない男の一例を」
 近づいてきたのは大柄な人物だった。ラグビーかアメリカンフットボールを通過してきたような肉厚の美青年、神足一歩こうたりかずほ
 背丈は一八五センチほど、松重より少し大きく、チェシュラックより少しちいさい。いずれにしろ立派な体格にはちがいなく、否が応でも気圧されてしまう。ハーフなのかクオーターなのか、顔の彫りが深く、よく観察すると縮れ気味に巻いた髪は濃い赤毛のようなダークブラウンだ。整髪料で撫でつけ、左右に分けながらうしろに流している。そうすると高い鼻梁、がっちりとした太い顎、たくましい眉ともみあげが、精悍な眼つきとともにクローズアップされるという寸法だった。
 ぼくらは奏を介して互いに自己紹介をした。
「言いたいことはわかるが、わたしはラグビーなんかはやっていないよ」
「ほんとうですか」
「ああ。きみくらいの年齢には痩せっぽちだった。道楽でジムに通いだしてから、ムキムキとね」神足は挨拶がわりにこちらの様子を訊ねてくる。「ところで、来年はそうとう絞らないといけないようだ。大丈夫かな」
「身の丈経営にはなるでしょうね」
「わたしに何かできることがあったら、いつでも言ってくれ。相談に乗らないこともない」ぼくの苦笑を見て神足は言い足す。「何かおかしかったかな」
「いえ。まさか商売敵にそんなことを言われるとは思ってもみなかった」
 神足にはその答えを笑う余裕があった。
「世間では極悪人であるかのように批判されている。ねぎらいの言葉ひとつかけることもない、血も涙もない地上げ屋みたいな感じかな。さんざん儲けているのは事実だ。でもそれはまっとうな事業で得たものだ。そして現実にひとやものを動かして何かを変えていくにはお金が必要だ」
「……」
「拝金主義に聞こえるかな。わたしは清貧の思想をあまり信用していなくてね。たとえば、プロのサッカー選手を寮に住まわせ、月給を五万円しか支払わずに成り立っているプロサッカークラブがあったとして、それはほんとうに事業として成り立っていると言えるのかな?」
「……もし、その選手が納得しているのなら」
 ぼくは少し考えてから答えた。
「そのしうちに納得するような選手でも、生活に必要なだけのお金を与えられたほうがありがたいはずだよ。誰かを犠牲にしないと成り立たないような環境しか用意できないのであれば、そのひとはクラブを経営すべきではないと思う。貧しいプロで苦しみながらサッカーをするより、手当もついて額面三〇万円を支給される企業チームのほうが、安心して打ち込めると思うんだが」神足の答えが長くなりかけたところ、
「神足さん、そろそろ」
 奏が割り込んできた。あまり時間がないらしい。
「すまない、打ち合わせをしないといけなくてね……きみにもお迎えのようだよ」振り返ると松重が近寄ってきていた。「それではわたしたちはこれで」
 神足と奏は廊下の先へと歩いていった。進藤社長と合流するのだろう。
「おまえの姉さんみたいな美女じゃなくて悪かったな」松重がすねた感じでぼやく。
「何が」
「神足のコートを持ってる上水流奏の姿を見ていただろう。羨ましかったんじゃないのか」
「そんなんじゃないですよ」
 松重との打ち合わせを終えてもまだ次の会議の準備はできていなかった。
 会議室の開場を待つあいだ座っていた控室のテーブルでスマートフォンが震える。電話の主は里昴だった。
《どう?》
「ああ、ごめん。まだ動きはないよ」
《そう……じゃあ》
 生気のない声がさっさと回線を切ろうとする。ぼくはあわてて引き止めた。
「ちょっと待って」
《何?》
「このあいだ、神足をあまり好きではないと言っていたよね」
《……うん》
「親爺のグループを乗っ取られたわけだから、ぼくも警戒はしていたんだけれど、でもさっき話した感じでは、人当たりはよかったよ。そんなに悪いやつなのか」
 はぁ、と電話の向こうから吐息が漏れる。ため息か。失笑かもしれない。
《あれだけの地位に就く人間だったらそのくらい外面がよくて当たり前でしょう?》
「……まあ……そう、かな」
《そんなに、見るからに悪人、なんて……いる?》
「まあ、あんまりいないかも」
《そういうことよ。裏で何やってるか。あなたも裏でがんばって》
 それきり通話は終了した。

 

 ディヴィジョン1とディヴィジョン2の合同実行委員会では今季と来季にまたがる多くの議題が審議され、さきほどの理事会で確認したわれわれも含め、債務超過でライセンス維持があやういクラブ──1部、2部合わせて五つの──があらためて釘を刺された。
 再来年からのプレミアシップの発足も正式に決まった。ディヴィジョン1のライセンスを持つすべてのクラブに参入資格があるが、初年度は一四チームで発足するために、来季一四位以内に入らなければ参加できない。一五位以下は新しいディヴィジョン1にスライドし、実質的に2部への「降格」となる。二〇チーム中、ほぼ三分の一にあたる六チームが降格する熾烈な争いだ。初年度のプレミアシップに参加できなければ会社が傾いてしまうクラブもあるだろう。ぼくらの銀星倶楽部はもちろんそのひとつだ。もし新規にスポンサードや増資に応じてくれる企業があったとしても2部に降格して広告価値が下がったときには手を引くこともありうる。
 プレミア参入=1部残留はディヴィジョン1のクラブにとり、至上命題。
 低予算でディヴィジョン1の中位以上に入るチームをつくり、経営を立て直す。言うのはたやすいが、実現は難しい。チーム編成もバジェットありきだ。ばしばしと予算を切ってコストを下げた先にしかサッカーの中身を語ることはできない。どこから手をつけたらよいのか。薄いところを削っても焼け石に水だ。
 たぶん、神足が言うような満足な待遇で選手を迎えることはできないだろう。そして、結果だけは求めることになる。
 クラブ存続、1部残留の二兎を追う。
 それを無理にでも推し進めようと考えているのはぼくだけなのかもしれない。いちばん頼りになりそうな松重でさえ中立の立場がせいぜいだとするなら、ほかの人々は来年のうちに整理しようと考えて店じまいに入っているのではないか。チェシュラックの解雇は、ほんとうは譲渡だったのではないのか。
 翌日におこなわれた銀星倶楽部の役員会は、クラブ内の意思を確認するいい機会だった。
 ぼく以外に常勤の役員が三名。非常勤の役員が一三名。銀星倶楽部の規模にしては少しだけ非常勤役員が多い気もするが、これは月光運輸グループの大部分を神足に掌握されてから、中小の企業に多く支援に入ってもらった結果だった。
 上水流領が亡くなるまでクラブを保たせたわけで、既に義理は果たしている。これ以上、損はしたくないという思いが、非常勤役員たちの胸のうちにあるはずだ。
 会議が始まろうというとき、松重があわただしく入ってきた。
「社長、すみません。喋らせてもらっていいですか」勢いに圧され、よくわからないままに、その言葉にぼくは頷いた。松重も頷くとあとをつづける。「ちょっと手順が……なんですが、ついいましがたインテルクルービから連絡があり、急遽それについてお話をできればと思います。えー……かいつまんで言うと、彼らは湾岸スタジアムを含むガーデン・オブ・ザ・ベイの優先使用権を手放してほしい、と申し入れをしてきました。この件についてみなさんの意見をおうかがいしたい」
 ぼくは驚いたが、室内は不思議なほどざわつかなかった。非常勤取締役のひとりが発言する。
「わたしたちが手放したあと、彼らはどうすると?」
「株式会社湾岸スタジアムごと買い取ると言っています」
 湾岸スタジアムの着工にあたり、建設費の四〇パーセントを月光運輸ホールディングスが供出。株式会社湾岸スタジアムの株を三五パーセント取得した。ゆえに月光運輸系列の企業が湾岸スタジアムの優先使用権を持つことになり、サッカーに関しては銀星倶楽部がそれを行使することが明文化されたのだが、月光運輸グループが神足の傘下に入ったことで、実態にそぐわなくなっていた。いつインテルクルービから譲れと言われてもおかしくない状態だったのだ。
 所有物ではないから売ることはできず当然売却益も出ない。しかしスタジアム、練習場、クラブハウスの賃借料は年間七億円にものぼる。すべてを吐き出して貧乏になろうとする銀星倶楽部にとってはかなりの経費削減になる。悪い話ではなかった。
下部組織アカデミーはどうするんです?」ぼくは訊いた。
 いま銀星倶楽部の下部組織は、湾岸スタジアムの豊富なサブグラウンドを使い、各年代のチームを同時に練習させている。これが東京のサッカー界に於ける銀星倶楽部の地位を確固たるものにしていた。
「先方が言うことには、われわれはまだジュニアユースチームを持っているだけだから問題はないと。そちらはそのままにして、下部組織と子どもたち、それに育成と普及のスタッフもすべて引き受けると言っています」
「しかしそれではこちらが……」ぼくの疑問に松重は、
「プレミアシップ開始から二年間は下部組織を保有する義務はない。三年目にスクールではない常設チームをひとつの年代で持てばいいだけです。そこまで読んで言ってきている」
「下部組織も施設も手放したら銀星倶楽部のステータスは下がる」
「おっしゃるとおりです」
 そこからは沈思黙考の時間帯だった。やがてひとりの取締役が「背に腹はかえられない。選択の余地はないのではないかな」と言うと、全員が頷いた。
「社長?」
 松重が訊ねてくる。ご決断を、というわけだ。
 断れないな、と思うと同時に、これはもし役員たちがぼくの考えを読んでいるのなら、女子部復活潰しじゃないか、とも思った。そしてそれはおくびにも出さずに「譲ってさしあげよう」と言い、承認した。
 ガーデン・オブ・ザ・ベイの譲渡を決めたあと、優先順位の高い議題をいくつか扱い、集まりが閉じようとしたとき、ぼくは宙に浮いた女子部の復活を提案した。
 里昴が言うところの裏では何も動かず根回しなどできていない状態でのことで、役員たちからかえってくる反応は当然、下部組織も持てないほどなのに女子部をやろうとは何事だ、というものが大勢を占めた。
「だからこそです。普及部門もなくなりスクールができないとなると地域貢献の度合いが薄れる。公共への奉仕をアピールする材料が必要です」ぼくは無理やり見つけた大義名分を掲げ、もっともらしさを漂わせるべく、自信があるかのように主張した。
「それが女子部だと?」
「そのとおりです。銀星倶楽部の下部組織がなくなってもインテルクルービがそれをすべて減らさずに受け入れるというなら、東京にあるチームの総数は減らない。しかし女子部がなくなったら、東京都から女子が登録できる女子チームがひとつ減ることになる。女子サッカーはプレーの場が少ないことが延々と課題のままで、あればあるほどいい、という状態だ。ここで女子部を潰したら印象が悪くなる。その反対に、もし支えれば、フェミニストをはじめとして好印象を抱いてくれるだろう層は多い。役場でもそうした人々は一定の地位を得ていますから、さまざまな相談が通りやすくなる可能性もある」
「……イメージの向上につながることはわかったが、ない袖はふれないぞ」
「銀星倶楽部本体のカネを喰い潰さなければいいわけですよね」
「もちろんだ。あてがあるのか」
「あります」
 そんなものはもちろんない。はったりでも言うしかなかった。
「予算面で問題がなく、その他の面で会社の迷惑にならないと約束してもらえるのなら、やぶさかではありませんな」年かさの取締役がそう言うと、場が納得した雰囲気になった。
「では、この件は群青社長に一任するということでよろしいですか」
 松重が確認をとると四方から「異議なし」の声がかえってくる。
 きょうからは新しいオフィスとクラブハウスと練習場とスタジアムを探しつつ、女子部の移管先とスポンサーも探さないといけない。自分から足枷をつけたのはよけいだったか──と後悔しかけたけれど、高飛車で無礼で物静かで少しかげのある栢本里昴の眼を思い浮かべると、なせだか、やらなければならないという気になった。

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