前回までのあらすじ

パラグアイのクラブ「リベルタ」に所属する日本人サッカー選手「群青叶(ぐんじょう・かなえ)」は、南米大陸二大カップ戦のひとつ、コパ・スダメリカーナ遠征に参加するべくコロンビア西岸の都市カリにやってきていた。
ベスト8進出をかけた決勝ラウンド、PKを外したことでサッカー賭博に大番狂わせの結果を招いた群青は、大量の資金流出を余儀なくされた麻薬密売組織の怒りを買い拉致されるが、銀星倶楽部常務、松重崇(まつしげ・たかし)によって救い出される。

帰国した群青は死期の迫った実父、プロサッカークラブ「銀星倶楽部」オーナーを務める上水流領(かみずる・かなめ)のあとを継いで経営危機に揺れる同クラブの社長に就任した。
直後にポーランド人監督カジミエシュ・チェシュラックの電撃解任があり、右往左往する群青に、髪碧眼の美女、栢本里昴(かやもと・りよん)がさらなる追い打ちをかける。銀星倶楽部の女子部にあたる同好会的組織、GEKKOコンピュータシステムサッカー部キャプテンの里昴は、いきなり解散させられた部を復活させるよう、群青に直訴したのだ。激しい剣幕にただうろたえるばかりだった群青は、しかし心労のあまり倒れこむ里昴を目のあたりにし、責任を強く感じる。

そして深夜。驚きつづきの一日を締めくくるように、銀星倶楽部から解雇されたばかりのチェシュラックがインテルクルービの監督に就任するというニュースが、群青を打ちのめした。
リーグの実行委員会で初めて対面したインテルクルービのオーナー神足一歩は心身ともに充実し、その口から溢れ出る経営理念には筋が通っていた。彼我の差を実感する群青。そこへ里昴から進捗を訊ねる電話が。気落ちしている暇はない。スタジアムの優先使用権をインテルクルービに譲ることが決まった銀星倶楽部の役員会で、群青は女子部の再建を主張。問題の解決に向けて一歩を踏み出した。

第四話 漆黒の女Black jacket woman

tedd02bn 内戦の爪痕が舗装道路や住宅の連なりを壊すと、区境くざかいは以前にも増して意味を持った。富裕層の多さを反映してか、世田谷区は都内でもっとも平和な空気を保っている。戦時は国連平和維持軍が出動していたこの区に、いま装甲車や歩兵の姿はない。自衛隊の戦車もせいぜい新宿通りや靖国通りを闊歩するにとどまり、こちらには姿を現さないようだ。
 一二月、23区の西を勢力圏とするプロサッカークラブ、セントラルの本拠地でもあるこの街に、ぼくは目黒区から足を踏み入れていた。駒沢通り沿いに駒沢公園から深沢不動交差点へ。こじゃれたカフェ飯屋で腹ごしらえをして、駒沢公園通りを北上、国道246号線へと出ると、そのまま三軒茶屋まで歩いた。何か営業のヒントは見つからないかと始めたこの散歩は、地元の湾岸地域で仕事がうまくいっていない現実から眼を背ける助けになった。
 将来的な市民クラブ化構想も既報の経営危機も興味を引かない。ぼくらは忘れられた存在だった。
 銀星倶楽部の貧乏物語はシンプルだ。
 もともとファンをあてにしない体質だったところにスポンサー料の激減で財源不足に陥った。
 今後はスター選手を売り、ファンが離れ、入場料とグッズ収入が減るサイクルにはまっていくだろう。何かを起案してもカネもひとも足りない状況で手が回らない。野放図なお客さんを上手にたしなめることも、座席の掃除もままならず、スタンドが荒れる。行き着く先は資金ショートを起こし、ホームゲームを自力で開催できなくなり年度末に会員資格を停止される未来だ。
 大手企業に接触することすらままならず、商店主など資産を持った個人にも相手にしてもらえない状況で、商工会議所品川支部青年部の幹事長が会ってくれた。でも答えはNOだった。
《特に強制ではないのですが、商工会全体としては、これからはセントラルに傾注しようということになっておりまして――》
 世田谷区と杉並区、それに武蔵野市と三鷹市を中心とする住宅街に支持基盤を拡げるセントラルは、下北沢や高円寺や吉祥寺辺りにたむろする流行に敏い二〇代にも受けがいい。もちろん、この三軒茶屋でも。
 商店街の電柱や軒先にはクラブカラーを示す紫色のフラッグが掲げられている。両者の関係につけいる隙は見当たらなかった。
 ――平時の意識が破られる。
 頬に微妙な空気の振動が当たった。
 予感は振り向きざまの光景をもって確信へと変わる。
 辺りをつんざく爆音。
 マンホールの蓋が飛び、火柱が上がった。同時に、世田谷通りを南下してきた医療費の値上げに抗議するデモ隊が、アメリカンフットボールで言う「ショットガン」のレシーバーのように、迷いのない速さで散開し、周囲に飛び出していく。
 買い物客でごった返す平穏は唐突に終わった。
 襲撃目標を公的機関や警察、自衛隊に置かない半ばテロ的な暴動。それがまさかここで起こるとは――VIPを守る警備が多く、都内最大の愚連隊が結成された土地に手を出してくるなどとは、夢にも思わなかった。道行く人々も呆気にとられながら、脱出すべき方角を探れずにまごまごしている。
 ぼくはカリのあの日を思い出した。しかし麻薬戦争の記憶は、狭い範囲にひとが密集するこの場所の危険を避ける役には立たない。
 駆けつけた機動隊が包囲網を敷く。デモ隊だったもの――暴徒と、一定の距離を置いての対峙。両者は暴発寸前で次の手を出しあぐね、奇妙な均衡が成立した。
 緊張に慣れかけた頃、暴力のステージが一段上がる。火炎瓶のゆったりした軌道を切り裂き、横風のあおりを受けてとぐろを巻くように飛んできたRPGのロケット弾が装甲車を直撃した。
「全員検挙!」
 号令とともに機動隊員が走り出し、肉弾戦での制圧を試みる。あちらこちらで市民を巻き添えの捕物劇が繰り広げられ、いっそうの混乱を引き起こした。
 逃げ惑う一群の後方で、その速さについていけない、幼い女の子が足をとられて転倒する。放り出したぬいぐるみが何人もの足に踏みつけられる。その「蹂躙じゅうりんレース」の最終走者が駆け抜けると、あとにはきわめて無防備な、ちいさく脆いからだだけが取り残された。
 機動隊員の盾が競り合いの果てに宙を舞う。
 落ちて、子どもを叩こうとする。
 この落下運動は阻まねばならない。
 肩からぶつかり、跳ね飛ばす。
 痛みはない。すぐに子どもを抱え上げ、脇道に逸れた。
 そこには暴徒がいた。
 まだ落ち着くことはできない。
 やつは視界にぼくを捉えたようだ。角材を振り上げてこちらに向かってきた。
 よけいなことを考えている猶予はなかった。抱えていた子どもを下ろし、カーリングの石のような台に刺さったセントラルのフラッグを引っこ抜く。それで角材の衝撃を受け止めた。棒術の心得はなくとも、長物で距離をとったほうが素手よりも安全であることくらいはわかる。カリでそうされたように近くで武器を振り廻されるのはまっぴらだった。
 そのうち相手も疲れるだろう。がまんしていれば逃げられる。そう考えていた。ところが暴徒はいっこうに衰えることなくぼくを殴ろうとする。
 手が痺れてきた――そう、弱音を吐きかけたときだった。タトゥーだらけの男たちふたりが背後から暴徒の両腕を掴み、そして三人目が髪を引っ張り、角材を取り上げた。
「この街で誰彼かまわずぶっ殺そうとした罪咎つみとがが赦されると思うなよ」
 言葉の主は頭髪を整髪料で逆立てていた。色はブリーチされて灰色に近くなっている。はだけた襟元に不自然な感じ。タトゥーを消した痕跡だろうかとぼくは勘ぐった。殺さないまでも、若いときに数人は半殺しにしてきたかのような眼光の鋭さがある。年の頃は三〇代前半といったところか。
ふたりの男が暴徒を何処かへと連れて行った。
 灰色髪の男は魚屋の風体をした男に「ほら」と言って女の子を差し出した。「この若いのが助けてくれたようだ。岩坂さん、礼を」
 そうして彼は立ち去った。
 岩坂と呼ばれた男は、ぼくがそう感じたままに、ほんとうに魚屋だった。まぐろの解体を実演していたところにこの騒ぎが起き、娘を見失っていたのだと言う。
「娘を助けていただいてありがとうございます。もしよろしければお礼をさせていただけませんか」と、岩坂は言った。
「いえ、ひとりでにからだが動いただけですから……それより、逃げましょう」
 ぼくは申し出を断った。事態は収束しかけていたけれど、まだ騒々しい個々の戦いが散在し、煙が立ち込めている。のんきに話している場合ではない。
 路地からひと気の少ない方角へ抜け出そうとすると、また岩坂に呼び止められた。
「あっ、じゃあ……せめてお名前だけでも」
 どこかで聞いたようなセリフだった。
「名乗るほどの者ではありませんよ。それでは」
 そう言うとぼくは走り出した。反芻すると岩坂よりもさらに紋切型のセリフだったような気がする。でも、内容は合っている。名乗るほどの実はぼくにはない。

 

 二日後、岩坂が銀星倶楽部の事務所を訪ねてきた。
 ぼくのスーツについているピンバッジの模様に見憶えがあり、そこから割り出したのだという。その模様が載っている雑誌の持ち主、商店会にいる熱心なセントラルのファンに訊くと、銀星倶楽部の星印であることがわかった。銀星倶楽部でニュースを検索すればぼくの顔も見つかる。捜査に苦労はしなかったようだ。
「これを受け取っていただけませんか」
 岩坂は、ウチにはナマモノしかないからと言い訳をして一〇万円分のビール券を差し出した。高額すぎる金券だ。
「そういうわけには」ぼくは慌てて断った。
「だめですか」
「はい……あの……会計的にも、問題が」
 すると岩坂はとたんに暗い顔になった。暴動のあと、ぼくに礼をし損なったと知ると、あの灰色髪の男――名前は山田というらしい――に、こっぴどく叱られたのだという。このまま帰れば、さらなる怒りを買うのはまちがいなかった。
「ぼくからその、山田さんにお話しましょうか。岩坂さんもお立場があるでしょうし」
「ほんとうですか」
「はい。ちょうど午後からの予定がなくなったので、いまからでも大丈夫ですよ」
「ああ、ありがとうございます。そうしたら、車でお送りしますから、砧公園に来ていただいてもいいですか」
「砧? 世田谷の?」
「ええ」
 小一時間が経った頃、ぼくは砧公園内にある野球場の土を踏んでいた。「この町内会は何事があっても、月一回の野球だけは必ずやるんです」と岩坂は言う。
 試合が始まる前の立ち話。銀星倶楽部が経営危機に陥っていること、チケットがさっぱり売れないこと、同じ商圏にインテルクルービという大きなライバルがいてすべてに於いて差をつけられていること、スタジアムがないこと――などの愚痴を、岩坂は、うん、うん、と、大きく頷きながら聞いてくれた。
 ぼくは銀星倶楽部のジャージを着てレフトを守った。打順は七番だった。肌寒くともからだは動く。バットを振り廻す自信はなかったのだけれど、なぜかボールを眼で追っていたら自然とバットに当たり、三打席とも右方向に流し打ちして出塁、二回ホームベースを踏んだ。七イニングでおこなわれた草野球のその七回裏の守備につくとき、ぼくは岩坂に褒められた。
「いやー、脚が速い! それに動体視力がいいんでしょう、眼がついていってるから、からだが後を追ってバットが当たってる。きっと監督も喜びます」そう言った岩坂の顔の向きがグラウンドの外に固定された。何かを認めた、という顔だった。「監督が来た」
 銀のアクセサリーをジャラジャラと言わせてうるさい、痩せぎすの男がゆらりと姿をあらわした。「監督」とは山田のことだったのだ。ボアの付いた、ごてごてとした黒い上着を羽織り、ユニフォームを肩に担ぐようにして持っている。灰色の髪が陽光に透けていた。
 岩坂は伝言を受けてダイヤモンド内に戻ってきた。
「最後のバッター打ち取るから、ツーアウトまでよろしく、と」
 勝利の瞬間だけを味わおうということらしい。
 あらためてよく観ると、「監督」の外見は反社会的な人種以外の何者でもない。欧州や南米ならともかく、日本のフットボール業界でこの種の人物と関係があるというのはあまり好ましくない事態だ。
 試合が終わると山田は彼なりの笑顔で近寄ってきた。
「山田です。おとついはどうも――群青くん、でよかったかな」
「はい」
「岩坂はちゃんとお礼をしたのかな」
「そのことなんですが、お気持ちだけで十分です。立場上、金品を頂戴すると、いろいろと問題になってしまいがちなので」
 返事を見届けると、岩坂は山田に銀星倶楽部の事情をかいつまんで話した。ぼくが社長であることを知り、お礼をされると困ることは山田も理解したようだった。ただ、彼は引かなかった。
「事情はわかったが、それではこの街を預かるおれの気が済まない……ちょっと話をしようか」
「えっ」
「おれの事務所で。何か役に立てるかもしれない」
 岩坂は何も言わず目配せをする。彼から視線を戻すと、山田と眼が合ってしまう。
「来なよ」
 異議を申し立てる隙がない。それに、わざわざ相手の気分を損ねる気にもならなかった。ぼくは山田の命令に応じて車に乗ることにした。
 七〇年前のアメ車、キャデラック60スペシャル。どうすればこれほど懐古的な車をレストアして動かせるのか想像もつかないほど古い。もしかしたら中身は原型をとどめていないのかもしれない。いずれにしろ高額の維持費がかかっているだろうことはわかる。この男は金持ちだ。ベージュ色に艶々と輝くボディ表面には傷ひとつなく、きれいに洗われ磨かれていた。
 着いた先は大きなスーパーマーケット二階の事務所だった。表の看板には《東岸山田とうがんやまだ》とあった。このチェーンなら知ってる。23区内に何軒もあって、珍しい輸入食料品が多く、裕福な奥様方にも人気のスーパーマーケットだ。山田が経営者だったのか。
「女ならすぐ連れてこれるけど」山田は空調のスイッチを入れるとソファに座った。「大金だのスポンサーだのハコモノだのという話になると、そうかんたんじゃないな……さて、どこから手をつけたものか」
「あの……その前に」
「何かな」
 ぼくが疑義を挟もうとすると山田の眉間にしわが寄る。
「どうしてぼくに何かしてくれようとするんですか。岩坂さんのお嬢さんは助けたかもしれませんけれども、それだけでぼくを助ける理由には――」
「ふん」前傾姿勢で顎を手に乗せていた山田はソファにそっくり返った。「知りたいか?」
「はい。理由もなしに利得があってそれがあとで不当なものだとわかったら困ります」
 山田はしばしぼくを睨んだ。そこに咎める気持ちはなさそうだ。しかし見られているとそれだけでプレッシャーになる。ぼくは眼を背けないように堪えた。
「群青くん、さ」気の遠くなるような時間が経ったあと、上目遣いに、申し訳なさそうな、若干の苦笑いといった顔つきで山田が言った。「やばいと思ってるだろ。おれ」
「そんなことは」
 反射で否定しても山田はうっすらとした笑みを絶やさず、かすかに首をふる。
「正直に言っていいんだよ。別に殺しゃしない」
殺されなくとも不具になるのはいやだ。正直に言って不興を買うのと黙っていてキレられるのとどちらがいい。どちらもよくない。
「一般的には」ぼくは但し書きをつけた。「闇のどろどろした部分とも、グレーゾーンとも、接触はご法度です」
 それはリーグの理事たちにもしつこく言い含められたことだった。以前、とある九州のクラブが経営危機に陥ったときにも、暗部の介入は徹底的に阻止した。
 山田はうん、うん、と、いかにも理解をしているという態度を示し、その余裕を持論のイントロダクションにするかまえだ。
「わかるよ、群青くん。でもさ、きれいなカネ――そんなものがあったとして――公明正大に動いてよいとされている大金はさ、ある一定の範囲内で廻っていて、ぼくらのところには落ちてこないんだよ。するとどうだろう、特に大企業がない田舎のスポーツ団体やちいさな街クラブを救えるのは、酒造メーカーとか、パチンコホール業とか、あるいは、貸金とか債権回収をやっているみたいだけど何で儲けているのか実態がよくわからない成金くらいのものだよね。おれはサッカーにはあかるくないからこれは勉強して得た知識だが、調べたかぎりでは、きみらのリーグはそこまでは規制を撤廃してフリーにした。企業じゃなくて個人でもスポンサーになってOKということにしたし、外資の参入も許可した。でもその筋とか半グレはだめだった。当然だ。境がなくなるからね。いちおう正業のなりをしていないといけない。そこでだ、安心したまえ群青くん。おれの正体なんかどうでもいいんだ。問題は表向きのチャンネルを持っているかどうかということなんだ。おれはその範囲できみを手伝ってやる。だから、言い換えると、大金を動かしてやることはできない。できる範囲で助けるよ。なにしろ暗がりのお金は使えないからね」
「わかりました」
 ぼくの短い返事に山田は満足したようだった。
「けっこう。おおぜいの人間を不幸のどん底に叩き落とした対価を何億と注ぎ込むこともできなくはないけれど、さすがにそれはまずかろう。スーパーマーケットの社長として、ちょこちょことカネと人間を動かすさ――」
「それで、山田さん」
「なんだい」
「最初の質問に答えていただいていないのですけれど」ぼくがしつこく訊ねると山田は静かに笑った。それでいて無言だ。「忘れませんよ、こんな短い時間で」
「そうかい」山田は冷蔵庫からよく冷えていそうな小瓶のビールを二本つまみ出し、それを降ってぼくの意思を確かめる。ぼくが首を横に振ると山田は一本を戻して冷蔵庫のドアを閉め、一本の栓を開けてふた口呷った。「賄賂を贈っておいてあとで醜聞をばらし、失脚させようなんて企んだわけじゃない。ほんとうだよ。おれはね、まっとうな正義感があって、若者らしい謙虚さと勇気を兼ね備えた青年社長を応援しようと思っているだけなんだ」
「だから、その理由が――」
「まあ待て。恩を着せようとしているわけでもない。群青くんが活躍すること自体で、おれに利益がありそうな匂いがするから、応援しようと思っているんだ。それで納得してもらえないか。あまりしつこいと、おれもいい加減腹立たしくなってくるしな」
「脅すんですか」
「ありていに言えばそうだ。話をしただけでも、見ようによっちゃもう関係を持っているも同然だろう。諦めろよ」唇を噛みしめるぼくを見て、山田は少し優しくなる。「悪いようにはしない」
 ぼくはしばし答えを出しあぐねた。営業にはめられたような感覚。
 これはだめだ。契約は自分の意思でするものだ。
 諦めずに言おう。ぼくは顔を上げた。
「でも、納得できないです」
 それを聞いてとうとう山田が折れた。
「オーケー、わかったよ」山田はさらにビールを煽り、ふう、と息をついてから言葉を継いだ。
「岩坂から銀星倶楽部、と聞いて思い当たるフシがあったのさ。さっきも言ったけど、おれはサッカーやサッカー界には詳しくない。だが、カネと、カネを動かす人間についてはよく知ってる。まあ、神足なんざ、有名すぎてガキでも知ってるけどな。仕事柄付き合いのある老人たちが、非常に神足を煙たがってる。かと言って、あっさり消せるほどの小物でもない。それこそ全面戦争になっちまう。なるべく合法的に力を弱めさせたいってのが、老人たちのはらうちだ。ところが中小を容赦なく潰しまくり、情報戦で大手を乗っ取る神足に歯向かうやつは少なくなってきた。そんな状況なのに、サッカー部門で楯突こうとしてるやつがいるって評判だ――きみのことだよ、群青くん。きみに乗っておけば、あとでリターンが得られるかもしれない。なかったとしても、たいした損にはならない。だからこれは一種の賭けであり先行投資だ。それもリスクの低い。おれも危ない橋を渡るつもりはない。こっそり支える程度のことだ。こっそりね」
「ぼくが……そんなおおごとに?」
 困惑するぼくを見て、山田は苦笑いを浮かべる。
「いやいや、そんなに自分を買い被る必要はない。あくまで銀星倶楽部が歯向かってるってだけで、群青くん個人の名前はまだ出ていない。心配するな。サッカーの範囲内で戦うぶんには、命まではとられないさ。せいぜい銀星倶楽部を潰されるくらいだ。でも、それがきみにとっては困るんだろう?」
「はい」
「それなら、そろそろ本題に入ってもいいかな」
 今度はぼくが観念する番だった。
「……はい。そこまでおわかりなのであれば。よろしくお願いします」
 山田はそれを聞いて表情を引き締めた。
「では、何に困っているか、もう少し詳しく聞こうか。岩坂の説明でざっとはわかっているつもりだけど」
 ぼくは問題になっていることのうち、特にクラブが資金難で苦しんでいること、ホームスタジアムがないこと、女子部の移管先となるチームと選手たちの職場を探していることを解決したいと告げた。
「盛りだくさんだな」
「すみません」
「女子部の件は微妙だな。おうかがいが必要だ」
 山田の言い方に畏れがまじっていた。凶暴そうなこの男にしては意外な表情だ。
「そっちが問題なら、スタジアムを探すだけでも……」
 途中まで言いかけ、山田に遮られた。
「スタジアムのほうも女帝を当てにしているんだよ」女帝? 誰なんです、その方は。そのひとこと、ふたことがはばかられる。ぼくは黙して次の指示を待った。「呼んでみよう。すぐ来るかも……そっちも呼んだほうがいいな」
「誰をです?」
「決まってるだろう」山田は哀れみを湛えて説く。「きみんとこの女子部のボスさ。面通ししないと」
 女帝と山田が呼ぶ傑物も、銀星倶楽部女子部を代表する栢本里昴も、一時間後に来ることになった。
 当意即妙な彼の導きにより、さして気を遣わずに済む会話を繰り返す。お題が女帝に到達した頃、外でかすかに物音がした。それが合図だった。
「……ほら、噂をすれば」眼を閉じていた山田は、アンテナの感度を確かめるように片眼の瞼だけを器用に持ち上げだ。「女帝のお出ましだ」
 ノックもせず、がちゃりとドアノブをひねって女が入ってくる。一七〇センチはありそうだ。日本人女性にしては背が高い部類に入る。もともと脚が長いのだろうがブーツのせいでさらに長く見える。その脚を包むジーンズはかぎりなくローライズで下着が覗いていた。革ジャンを着ているとはいえ、インナーにはこの寒いのにブラもつけずに胸元が大きく開いた白いTシャツだけ。長い黒髪を無造作にリボンで縛り、手にはなぜか木刀を携えていた。
 女の名前はリ・ミィタイだと山田が教えてくれた。漢字は李弥台。帰化しているが黒龍江省の出身だという。中国東北部の生まれなら、このくらいの長身も頷ける。
「ミダイでいいよ」と言いながら差し出された手を握り、挨拶する。握手に抵抗がないところを見るとアスリートなのか。「それは」と木刀について訊ねると、ミダイは「長いものを持ってないと落ち着かないからね。その点、バットが大好きなこいつとは気が合う」。こいつと言うのは山田のことだった。
「剣道でもやっているんですか」
 ぼくは訊いた。競技の感覚をふだんでも維持したいのだろうと思ったのだ。その考えは否定された。
「いいや」ミダイはバトントワラーのように器用に木刀を操ると、ぴたりとからだの正面で止め、それをゆっくりと脇に下ろしてからこう言った。「ホッケーさ」
 ほどなくして里昴がやってきた。ひと目を避けるようにパーカーのフードを被り、マフラーをぐるぐる巻きにしていたので、幽霊のような白い肌はほとんど露出していなかった。
「へえ」ミダイは関心を隠さない。「さっき聞いたけど、女子サッカーチームのキャプテンさん、なんだって? はじめまして。球蹴りにはでっかい子がいるんだね」
 それを聞いた里昴の眉がぴくりと動く。気に障ったのだろう。しかし不快感は一瞬にしてしまい込んだ。この場ではミダイに最大の権限があると察知したのかもしれない。里昴はおとなしく自分のフルネームを名乗った。
「日本名なんだね」
「まあ……育ててもらったひとの苗字なので」
「そう」
 ミダイはずけずけと訊ねて屈託がない。こちらにとばっちりがないかと冷やひやしていると、案の定、里昴は冷たい怒りを込めてこちらを睨みつける。眼を逸らすことができず、固まったまま、ぼくは心のなかで彼女に詫びた。
 山田に促され、ぼくはここまでの成り行きをかいつまんで話した。それを引き継いだ山田は、「おれはスポーツ界のことはわからない。ミダイに訊こうかと……」
「あたしにだって専門外だが」ミダイはすぐに反応する。「なんか手伝えることある?」
「ちょっと待って」ぽん、ぽん、と勝手に弾んでいく会話のリズムを切り刻むように、里昴が口を挟んだ。「その前に。ミダイさん、何者なの」
「あたし? そうだね、まあ、言ってみれば――――ホッケー界の裏番かな」
「裏番?」里昴は眉間にしわを寄せる。
「そう。いろいろあってね。面倒だから代表には次のオリンピックの直前に入ろうと思ってる。それまでは変わり身を立てて、あたしは背後でのさばってる。だから裏番」そう言うとミダイは山田を指さした。「こいつはタチの悪い女衒でね。高級娼婦を政財界だのマスコミだののお偉いさんに送り込むのがいちばんの仕事なんだ。お嬢ちゃんも気をつけたほうがいいよ。売り飛ばされかねないからね」
 忠告ではなく脅しか挑発と受け取った里昴はむきになった。
「ミダイさんは山田さんとどういう関係なの? もしかして、あなたも売ってもらってる?」
「そう見える? まあ、なかなかあたしと腰の高さが合う日本人がいなかったのは確かだけど――そこのお兄さんならちょうどいいかもね?」
 ミダイは里昴とぼくを交互に見やって言う。里昴はその意味を察し、破裂寸前だとわかるまでに顔をこわばらせ、唇をふるわせた。
「とはいえ」ミダイは自分で自分の発言を訂正する。「何が“とはいえ”なんだろうね。とはいえ、説明しないと納得しないだろうから、あたしと山田のなれそめを話しておこうか。よくある話で、六本木で呑んでいるときに、一回寝てみようということになったんだ。で、関係を持ったのはその一度きりだったんだけど、あたしがマフィアの一族の者だということが問題になった」
「マフィア?」里昴が聞き返す。
 山田たちの愚連隊は、反政府ゲリラとの戦いで中国マフィアの力を借りていて頭が上がらないのだと、ミダイは言った。
 詳しくはこうだ。アジア的な交渉の余地なくいきなり銃をぶっぱなす性質のロシアンマフィアが、内戦を機にゲリラを後押しするかたちで日本に乗り込んできた。しかしある程度のシマを譲って戦いを回避しようにも、公権力との結び付きが深い愚連隊はどうしても反体制組織からすれば標的になる。つまりゲリラとの交戦は不可避だった。そのままでは本格的な戦争に慣れていない愚連隊は壊滅する。そこで山田たちは、棲み分けができていた中華系と盟約を結んだ。残忍さではロシア人にひけをとらない中国人は実戦でもかなり役に立ったのだそうだ。
「山田と出逢ったそのとき、あたしはまだ淫行条例に引っかかる年齢で、組織のあとを継ぐかもしれない可能性があった――これは政略結婚があるかもしれないお嬢に対する“お手つき”だ。言いがかりをつける根拠はあった。まあ、意図的にこいつをはめたんだけどね。最初は代替エネルギーの販売権か、それこそ女郎商売の人脈でもむしりとってやろうと思ったんだけど、いいやつそうだったから赦してやることにして」そこまで言うとミダイはソファの手すりに座り、山田を優しい眼で見た。「あたしは健気な女を演じて、涙を流しつつ、あたしがやってるホッケーを支援してもらうことで手打ちにするよう親族に頼み込んだ」ミダイは山田の頭を抱え、苦い表情の顔を撫でまわした。「バカだよねぇ。ふだん、女使って弱みを握ってたのに、自分が弱み握られてやんの。あたしがあとを継ぐのをやめたら、騙された、とか言ってへこんでたよ。そういうわけ。わかった?」
「ええ」里昴はだまされたことを理解できないドッキリ番組の被害者のようにきょとんとした顔になっていた。
「言っとくけど、からだは売ってないよ。夜の仕事しか見つからないからホステスやってるけど」
「山田さんの世話になってるんじゃないんですか」事情を呑み込んだ里昴はさきほどよりもずいぶんと柔らかな口調で訊いた。
「いや、あまり頼るのもよくないかなと思ってね。あたしは好きに稼ぐさ……あんたは山田のスーパーで使ってもらったらいい。なあ、山田?」
「わたしは……」
 里昴が困ったのを見て気を利かせたのは意外にも山田だった。
「ミダイ、これも盟約でなすべき範囲内の人事に含めるつもりかな?」
「もちろん。造作もないだろ?」
 ミダイに見下されて山田は下を向き、ため息をついた。そして里昴に話しかける。
「というわけだ。まずは銀星倶楽部女子部になる予定のきみたち全員を、チェーン店に散らばらせて、二、三人ずつパートに雇おう」
「あの……」里昴は許可を求めるように、上級生の顔色をうかがうように、ミダイを見た。
「まあ、女同士の連帯感ってことで」
 ミダイはよそを向いて言う。それを見た里昴の顔に少しあたたかみが戻った。
「しかし、いまできることと言えばそのくらいだ。移管先を探すのは……ミダイ、女子サッカーの知り合いとか、いないのか」
 山田はミダイに訊いた。
「いないね。昔いたけどね」
 ミダイの答えはそっけない。
「じゃあ、スタジアムは」山田が質問を重ねる。
「それもわかんないよ」
 話がつながらず、場は沈黙した。そこでぼくはおそるおそる、
「ミダイさん、サッカーに使えそうなホッケーのスタジアム、ありませんか」
「ああ、それなら」ミダイはあっさり答えた。「大井第二がそうだね。アメフト、ラクロス、サッカーにも対応してる」
「あっ……」里昴は閃いたように眼を開け、そしてぼくのほうを向いた。「使えるかも」
「東京オリンピックで改装したからだいぶん変わったよ。ホッケーでスケジュールをおさえたから、サッカーやらなくなったけど。ちょっと工事したら客入れられるんじゃないの」ぞんざいな口調だけれど、ミダイの説明はわかりやすい。「そのスケジュールの問題さえ解決すれば。こればかりはあたしひとりの気分じゃどうにもならない。了解を得ないとね」
 東京オリンピックを契機に女子ホッケーの人気が急騰し――主にユニフォームのミニスカートがさらにきわどくなったおかげらしい――定期的にリーグ戦を実施するようになった。集中開催だから、その日の試合をするのは二チームだけではない。リーグなり協会なり全チームなり、なんらかの合意を取り付けないといけないのだろう。
「難しいんですか」ぼくは訊いた。
「いや。そんなに被らないと思うよ。大丈夫なんじゃないの。ただ、協会のおじいさんやおじさんがうるさいから。そこだけ」話が終わりに近づいたと感じたのか、ミダイはぼくとの会話を放棄して急に雑談を始める。「里昴、あんたのチーム、強いの」
「まあ、ちょっとは」
「へえ」
「断っているけれど、わたしは代表に来いと言われているし……」
「そうなんだ。あたしと同じだね」
「それに、ろう者サッカーの代表もまじってくれてる」
「……へえ。その子の名前は?」
「蓮田はすだチカ」
 それを聞いたミダイがガタリ、と大きな音を立てて尻で椅子を跳ね除け、猛烈な勢いで立ち上がった。眼を見開き、ずかずかと急ぎ歩いて近寄ったミダイは、どもりながら里昴の両腕を掴む。
「ほんとうに?」それまでとは口調が一変していた。ミダイは必死な顔をしたままでさらに里昴に訊ねる。「いま、年は」
「二二歳。見た目が小学生か中学生くらいだから、なかなか信じてもらえないけれど」
「童顔てこと?」
「そうだけれど、それだけじゃなくて、ほんとうにちいさいの」
 ちいさい、と、里昴の言葉を噛みしめるように復唱したミダイは、よろよろと歩くと窓際にもたれかかった。
「……たしかに本物みたいだね」ミダイの表情は苦しげで、額に汗が浮いている。
「チカと知り合い?」里昴が静かに言う。
 ミダイはそれに応えず、眉間にしわを寄せたまま、一方的に要求をつきつけてきた。
「あしたでいい……あの子に逢わせてくれる?」

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