前回までのあらすじ

パラグアイのクラブ「リベルタ」に所属する日本人サッカー選手「群青叶(ぐんじょう・かなえ)」は、南米大陸二大カップ戦のひとつ、コパ・スダメリカーナ遠征に参加。コロンビア西岸の都市カリにてベスト8進出をかけた決勝ラウンドに臨んだ。この試合でPKを外し、サッカー賭博に大番狂わせの結果を招いた群青は、大量の資金流出を余儀なくされた麻薬密売組織の怒りを買い拉致されるが、東京のプロサッカークラブ「銀星倶楽部」常務、松重崇(まつしげ・たかし)によって救い出され、帰国する。

「銀星倶楽部」オーナー上水流領(かみずる・かなめ)の死後、領の嫡外子である群青は同クラブの社長に就任。経営危機に揺れるクラブの再建に乗り出す。
しかし腹違いの姉である上水流奏(かみずる・かなで)がインテルクルービの専務であった事実の発覚を皮切りに、次々と衝撃的な出来事――1部残留に貢献したカジミエシュ・チェシュラック監督の更迭とインテルクルービによる「横取り」、銀星倶楽部の女子部にあたるGEKKOコンピュータシステムサッカー部の解散とそれを批難するキャプテン栢本里昴(かやもと・りよん)の出現――にさらされ、新米社長の群青はうろたえるばかり。

リーグの理事会と実行委員会で初めて対面した「インテルクルービ」オーナー神足一歩(こうたり・かずほ)は心身ともに充実し、経営理念には筋が通っていた。彼我の差を実感する群青。そこへ里昴から進捗を訊ねる電話が。気落ちしている暇はない。スタジアムの優先使用権をインテルクルービに譲ることが決まった銀星倶楽部の役員会で、群青は女子部の再建を主張。問題の解決に向けて一歩を踏み出した。

三軒茶屋で反体制勢力による突発的な暴動に出くわした群青は、混乱のさなか児童を助けだしたことから、地元の愚連隊を取り仕切る男にしてスーパーマーケットチェーンの経営者、山田(やまだ)と出会う。山田は彼なりの目論見で群青を援助したいと申し出てきた。具体的な段になって、山田はホッケー界の裏番だと自称する若い女性アスリート、ミダイを呼ぶ。そのミダイは話し合いのためやってきた里昴から、チームメイトに「蓮田(はすだ)チカ」というろう者サッカー代表がいると聞き、激しく動揺する。そして血相を変え、チカに逢わせてくれと里昴に懇願するのだった。

第五話 真新しい家Like a brand new home in town

tedd02bn 南砂町駅から出てコンビニエンスストアに立ち寄り、工場群を縫うように通った一本道を歩くと、三〇分ほどで新砂運動場に着いた。
 パイプが縦横無尽に走る化学工場はディストピアもののSF映画に出てくる奇怪な都市のような威容を誇り、歩行者を圧迫する。
 その迫力に魅入られながら、あるいは眼をそむけながら歩いた路の終わりでは、物流センターからあふれたものか、風に吹かれた紙くずが散らばっている。
 そして気が滅入るような曇り空。
 都会のフットボールクラブには似つかわしい風景なのかもしれないけれど、綠あふれる理想的なスポーツ環境には程遠い。
 コートに敷かれた人工芝は旧式のまま。
 これがいま、銀星倶楽部に与えられた練習場だった。
 インテルクルービは年内いっぱいと言わず、男子のリーグ戦終了と同時に湾岸スタジアムとその付帯施設の使用を始めた。形式上は銀星倶楽部がキャンセルしてインテルクルービが残りの日数分、日割りで料金を払った恰好になっている。男女両トップチームがカップ戦の日程を残しているからいいグラウンドで練習したいというのが、インテルクルービの言い分だった。
 銀星倶楽部トップチームはリーグ戦終了と同時に解散していたから実害はない。むしろ経費削減になって助かったと、松重は喜んだ。トップチームが追い出されたというのに、看板をインテルクルービに掛け替えただけの、アカデミーのコーチと子どもたちが、そのままガーデン・オブ・ザ・ベイを使っていられるのは皮肉だった。
 ゆえにインテルクルービの女子部であるインテルクルービメイデンが常用していたこの新砂運動場は年内いっぱい銀星倶楽部のものだ。使用料もインテルクルービ持ち。と言っても、トップはもう解散している。結局「女子部になる予定」の里昴たちが使うことになった。
 視界が灰色に充ちていても、あちこちの市民グラウンドや野原をジプシーのように転々としていた女子部にとっては、ようやく訪れた楽園だと言っていい。クラブハウスもついていて、恵まれた部類に入る施設であることにはまちがいない。
 コートにはこの幸運を楽しむかのような先客がいた。
 一五〇センチもなさそうな、小柄な女の子だ。小学校五、六年生くらいに見えるけれど、ぼくは彼女がおとなであることを知っている。そして、活発で健康そうなこの二一歳に、黒髪のショートボブはとてもよく似合っている。
 前に誰もいないのに、存在しているかのように対峙する相手を避け、すり抜けていくスラロームドリブル。こまかいタッチの変化は実戦の記憶をトレースしているのかもしれない。
 彼女の邪魔をしないように、ぼくらはそっとフェンスの外に立つ。ふう、と息を吐く様子が見えた。ゆっくりと集中を解いている。
 眼が合った。
 会釈し、近づいてくる。
 ちいさな一〇番はピッチサイドで補聴器を付け、スケッチブックを手に取った。一頁目を開き、油性マジックを走らせる。
《いちどあいさつしたきりでしたね! 蓮田チカです》すばやく、わかりやすく書くためか、できるだけ漢字を使わないことを心がけているようだ。《きょうはなんの用なんですか》
「うん。じつは、蓮田さんに逢わせたいひとがいるんだ」
 言うが早いか、待ちきれなかったかのように、ぼくの背後からミダイが姿をあらわした。
 気は急いているが、言葉は遠慮がちに遅れてやってくる。
 ミダイは何かを言いかけ、言い直そうとし――その逡巡を繰り返したのちに、ようやく挨拶を振り絞った。
「チカ……元気だった?」
 接近を図るミダイと眼が合い、チカの動きが止まる。逸らすことのできない眼は、ずり落ちそうになるスケッチブックを気にしてようやくミダイを見るのをやめた。
 チカはスケッチブックに目をやり、ミダイに視線を戻し、またスケッチブックを見て――それを使うべきか否か迷っている。
 俯いたまま口を開けたチカはア音の何かを言おうとしたようだったけれど、結局、油性マジックで文字を書くことを選んだ。
《元気だよ! サッカー楽しいし》
 困ったような顔でスケッチブックの文面に眼を通したミダイは、ぎこちなく微笑みを浮かべてチカに話しかける。
「あのね、ひとこと、チカに謝りたくて」チカは文字を書かず、ただ頷いた。手書きではこまぎれの会話にいちいち反応できないからだろう。それを確かめるとミダイはチカの前に跪き、眼の高さを合わせてから言葉をつづける。「言える機会がなかったから、いま言うね。……あのときは、ひどいけがをさせてしまってごめんなさい…………不便があるなら、なんでも言って。なんでもする。だから……あの…………」
 言葉に窮したミダイが、はっと息を呑むのがわかった。
 チカは自分の口で話した。
「だいじょうぶ」
 少しイントネーションが怪しかったが、健常者に近い発音だった。何より、はっきり聞かせたいという意思が伝わってくる、力づよい声だった。
「あ……」ミダイは言葉が出てこない。
 スケッチブックと油性マジックを放り出し、チカは自分の胸の高さにあるミダイの頭を、ぎゅうっと力いっぱい抱きしめた。
「だいじょうぶだよ」

 

 都合のついたメンバーが集まり全体メニューの練習が始まったところで、ぼくとミダイ、それに山田はフェンスの外に出た。
 安堵の気配がミダイの舌を滑らかにする。彼女は次々とあふれてくる記憶のかけらをせき止め、時間の順序に沿って列べ直していき――ぼくと山田が告白の証人になった。
「チカとは歳も近くてよくつるんでいたんだけど、そういう仲になったのは高校のときだった」
 学校も住むところもプレーする競技もちがうふたりは、東京学芸大学が主催する「ゴールキーパーが存在するスポーツの若年者交流会」に参加して知り合った。スポーツの成り立ちを知らず、ルールの根本も理解しないまま「強化」のみに邁進して結局強くもなれない状況を各大学の教授連が嘆き、スポーツに積極的に取り組む年代の高校生に歴史を学んでもらおうと学大を窓口にはじめられたものだった。
 ラグビーやアメリカンフットボールでは相手のエンドを割った時点で得点が決まるけれど、ホッケーやラクロス、サッカー、ハンドボール、水球ではゴールキーパーが相手の攻撃を妨害する。ふたつのチームがまざって相手のエンドをめざすボールゲームになぜゴールキーパーが存在するか、その源流を辿るところから競技の真髄を知ろうとする。この講義をミダイとチカは楽しみ、互いのクラブチームの練習を観に行ったりしていた。
 ふたりの関係を引き裂いたのは、内戦を予感させた二〇二三年一〇月一三日金曜日の「旧副都心暴動」だった。
 あらかじめ危険がわかっていれば外出は控えただろう。しかし混乱した市民の暴徒化をも狙った反体制ゲリラによる告知なしの都庁急襲を予想することは困難だった。そんなことが起こり、新宿とその周辺が戦場のようになるとは知らず、ミダイとチカは連れ立って出かけた。
 明治通り沿いにいたふたりは、東新宿駅と新宿三丁目駅の双方から暴徒が押し寄せてきたのを見て異常な事態を察し、同時にひらけた南北への脱出をあきらめ、あえてミダイと知り合いの中国人が多い歌舞伎町へ逃げ込もうと西に進路をとった。
 中華系のテリトリーに到達してもう大丈夫だろうと安心したふたりが無防備に映ったのか。ミダイとチカは暴動のどさくさに紛れて情欲を充たそうとする男たちに襲われた。
 ミダイは持っていたホッケーのスティックで男を殴る。するとあろうことかスティックはその拍子に折れ、破片が無情にもチカの側頭部を激しく衝いた。動揺するミダイと昏倒したチカを、逆上した男たちは力任せに殴り始める。ミダイの知り合いが駆けつけて被害はそこまでで済んだものの、チカは頭部に重いけがを負い、意識を失った。
 ふたりは別々の病院に搬送された。ミダイは退院するとチカの無事を確かめるべく、彼女が入院しているはずの病院へと向かった。しかし病室はもぬけの殻だった。
 チカの通っていた学校に問い合わせたところでは、両親の田舎で静養することにしたらしい。何か重大なダメージを負ったのだろうとはミダイにも想像できたが、まさか外傷が原因で耳が聞こえにくくなっていたとは思ってもみなかった。
 ぼくも彼女については、ろうに近い高度難聴――身体障害者手帳が交付される程度のなかではもっとも軽い6級相当、ただし4級に近い困難を伴う――の聴覚障害者であることしか知らない。
 謝るミダイをチカが赦したとき、チカと里昴に説明されて初めてわかったことがある。
 サッカーから離れて聴覚障害を克服しようとしていたチカは、障害者採用枠で勤務しながらプレーできるチームがあると知り、親の反対を押し切って東京へと戻ってきたのだ。そもそも田舎にいたときも、親に隠れてこっそりボールを蹴る日々を送っていた。チカはプレーへの執着を捨てられなかった。たとえ周囲の音を聴くことが困難になり、無音に近い世界に閉ざされていたとしても。
 ぼくの死んだ親爺も罪なことをする――いや、よいことだったのだろうか。GEKKOコンピュータシステムの経営を長い年月まっとうできたなら、そう言ってもよかっただろう。
 職場とサッカー環境がセットになっていたからこそ、チカは両親と絶縁してまで東京にやってきた。それなのに両方をいっぺんに失い、チカは途方に暮れたはずだ。山田が就職の口を斡旋してくれなければ、両親に頭を下げて実家に戻り、そこから二度と出られなくなる運命だったにちがいない。
「だからあの子――里昴、あんなに一所懸命なんだね」
 ミダイは山田の事務所での不遜な態度からは想像もつかないような弱々しさを漂わせて言った。
「まあ、自分のこともあると思いますよ」ぼくはミダイの負担を軽くしようとして言った。
「でも、責任感強いよね」
「そうですね」
「大井第二のことは任せといて」
「ありがとうございます――あの」空気が和んだのを感じ、ぼくは気になっていたことを訊くことにした。
「何?」
「木刀、持つようになったのって」
「ああ」ミダイはかすかに笑った。「あんたが思っているとおり、チカと別れてから。もうスティックのようにすぐ折れるものは武器にしないという反省と。どんなに強い相手も屈服させる硬いものを持つという決意と。ま、おかげで連戦連勝だ」
「それはよかった」
「まあね」
「最後にチカと何を話していたんですか」
「いや、やっぱりひとつだけお願い、って」
「なんですか?」
「呑みに連れて行ってくれって。自分ひとりだと子どもだと思われて、店に入れてくれないからって」
「行くんですか」
「まあ、あの子の体調を見計らってね」
 何年分もの心の重荷をおろしたミダイに「よかったな」と山田が声をかける。ミダイは素直に頷いた。
 タクシーを呼ぼうとすると、ちょうど眼の前に一台の車が止まった。じゃあ、とぼくに挨拶をして乗り込む山田とミダイのふたりと入れ替わりに降りてきたのは、キャリーバッグを転がした外国人の女の子たちだった。三人いるが、髪の色はさまざまでも、肌の白さは共通していた。雰囲気も似ている。同郷なのだろうか?
 そのうちのもっとも背が低い――チカよりは大きくて一五〇センチくらいか――プラチナブロンドの髪を持つ冷めた瞳の少女が、手許のメモ帳を見たあと、ぼくに訊ねた。
「ここ、は、しんすなうんどうじょう、ですか」
「ああ、うん」
 歌うように透き通る高い声でそれだけを訊くとプラチナの子はふたりの友人たちと何事か話し合った。そしてスマートフォンかタブレットかよくわからない微妙な大きさの端末からメールを送ると、彼女はひとりキャリーバッグからスパイクを取り出し、それに履き替えてグラウンドへと入っていく。
 進入に気づいた里昴は全体練習を止めた。からだを冷やさないように、チームメイト個々にはボールに触らせながら、自らは来訪者に近づいていった。ぼくもあわてて駆け寄る。
「ごめん、勝手に入れちゃって。どうもここに用があるみたいで」
「ああ、いや。それはいいのだけれど……この子、誰」
「さあ」
 プラチナの子は金髪碧眼の里昴を見て言う。
「ボルベーシュティ、ロムーナ?」
「は?」訊かれた里昴の頭上に疑問符が浮かんだ。聞き惚れてしまうようなかわいらしい声だけれど、ぼくにもさっぱり意味はわからない。
「サウ……エングレーザ? エングレス」
 重ねて言われても里昴は絶句したままだ。
「わかる?」ぼくは里昴に訊ねた。
「わかるわけないでしょう」
「そうか……エングレスはスペイン語だとイングリッシュのことだから“英語喋れるのか”って言ってるのかもしれないと思ったんだけれど」
「それを先に言いなさいよ」
 里昴は気を取り直して“Where are you from?”と英語で訊いた。里昴とてネイティヴではない。かなりカタカナ発音に近いが、それがよかったようだ。しっかり聞き取れたらしいプラチナの子は頷くとこう言った。
「モルドバ」
 その名前にはおぼえがあった。ルーマニアの隣国だ。英語圏じゃない。英語で話しても流暢な会話にはならないだろう。
 かんたんな英語でのやりとりでは相互理解に限度がある。それでも重要なことはわかった。彼女のファーストネームがタチアナだということ。もうひとつは、里昴が解読した。
「どうもインテルクルービとまちがえたみたいで」
 腰に左手を当て、右手の指で眉間をほぐしながら、どうしたものかと里昴は考え込んだ。
 タチアナが端末で提示した画面メモはインテルクルービメイデンとその下部組織メーヒェンの公式サイトのものだった。一〇時三〇分、新砂運動場と書いてある。たしかに昨日まではその予定だったのだろうが、もうインテルクルービの女子選手は、湾岸スタジアム横のコートで練習している。リロードした画面を見せると、ガーデン・オブ・ザ・ベイというカタカナは読めなくても、新砂運動場とはちがう文字だということはわかったのだろう。タチアナは落胆した表情になった。
 里昴はタチアナの肩にそっと触れた。
「いいわ。いっしょにやりましょう」
 モルドバから来た少女たちはクラブハウスで練習着に着替え、コートに姿をあらわした。彼女たちを含めてフィールドプレーヤーが一五人、ゴールキーパーがひとり、合わせて一六人が集まった。
 ウオームアップのあと、五人、五人、六人の三組に分かれての鬼廻しでさらにからだを温めると、さっそくゲームに取り組む。里昴はゴールキーパーがいる実戦形式にこだわり、メインのトレーニングメニューは、キーパーふたりを置くハーフコートの七対七になった。里昴はチカのいるチームでキーパーを務めた。
 正規のキーパーはタチアナたち――ふたりのチームメイトはアリョーナ、サビーナだと挨拶した――のチームに入った。
 中学生か、せいぜい高校一年生くらいだろう飛び入りの三人は、年齢に見合わぬすばやいディフェンスをした。チカがボールを持った瞬間にサビーナがコースをふさぐと、タチアナがボールを奪う。タチアナはすぐアリョーナにパスをするとリターンをもらい、サビーナにパスをして走り出した。
 里昴は、タチアナをチカのようにボールを足許でこねるタイプの技巧派だと予想していたのかもしれない。だとしたら、球離れの速さを意外に思ったことだろう。さすがにゴール前では個人技を見せるのだろうという考えすら覆され、里昴は混乱しているようだった。
 戸惑っているのはチカも同じだった。プレッシャーをかけにいけばドリブルでかわされる。
 ステイしていれば意表を衝いたパスを通される。
 予想をことごとく外され、ボールを奪うことができない。
 そのようにしてサビーナから瞬時に出たスルーパスを、タチアナが受ける。トラップせず、半身でファーストタッチをコントロールすると、そのまますばやく右脚を振った。シュートに力はなくとも、キックのモーションが里昴の反応よりも速い。ブレることなく、すうっときれいに転がるボールがゴールネットに吸い込まれた。
 その後もチカはまったく自分のリズムでプレーすることができず、タチアナにボールを奪われては次々とゴールを決められた。タチアナはほとんど汗をかいていないようだったけれど、埃っぽいと感じたのか、大きなペットボトルの水を頭から被った。髪の毛がモップのように垂れ下がる。シャツが濡れそぼり肌に張り付き、柔らかい突起を強調しても、タチアナはまったく意に介さない。
「そこをどいて」里昴を押しのけ、チカが肉声で喋った。さきほどを除いては使う機会がほとんどなかった口話。たどたどしいだけに凄みがある。「もう一回わたしと勝負して」
 チカはよほど悔しいのだろう。タチアナは頷いた。剣幕だけで気持ちは伝わったと見える。
 勝負はキーパーなし、二対二のラインゴール──ゴールラインを越えれば一点──で、五点先取したほうが勝ち。タチアナはアリョーナのみを従え、里昴はチカの気迫に圧されて協力を買って出た。ジャッジはぼくがおこなうことになった。
 勝負が始まった。
 タチアナはチカが何度意表を衝こうとしても正確に動く方向を予想して止めに入る。ボールを奪ってはラインを越すグラウンダーのボール、つまりシュートを狙い、それができない場合はアリョーナに預けて走り出す動作を執拗に繰り返した。自分と相手の距離が空いているとわかったら、ドリブルでゴールラインを越すまで走る。判断が早く思い切りがいいから迫力があった。
 そして華麗な身のこなしでチカのプレスをかわしつづける。からだが当たっても体重を逃がすすべを心得ていて意に介しない。そもそも体幹が強く重心が低いから、モルドバ出身のふたりはきゃしゃな見た目に反して倒れにくかった。タチアナとアリョーナは、チカと里昴に一点も許すことなく五ゴールを決めて勝利した。
 さきほど水を被ったせいもあるのだろうけれど、タチアナに多くの汗をかいた様子はない。それは水を被っていないアリョーナが涼しげにしていることからもあきらかだった。いっぽう、チカと里昴は肩で息をしている。特にチカの消耗が激しく、大粒の汗をぼたぼたと落としていた。勝敗の差が疲労の度合いとして明確になっていた。
「マイ、ウン、セリオス!」
 近寄ってきたタチアナが言う。意味はわからないが、厳しい響きのそれがグラウンドのごく狭い範囲に響き渡り、弛緩しかけていた選手たちに、再び緊張を走らせた。
 プレー中は補聴器を外していたチカも、タチアナの険しい表情から、注意か罵倒か、少なくとも褒められたのではないことはわかったようだ。
「里昴、こいつ、なんて言った」
 いまにも掴みかかりそうなチカを背中から里昴が抱き留める。その里昴も決して平静ではなく、頬の筋肉をひくひくと痙攣させている。
「へたくそ。だめ」
 タチアナは片言の日本語を使った。それとてチカには伝わらないが、ニュアンスはより強く感じられた。
 里昴がぼくを呼んだ。
「どうにかして」
 ぼくがコートに入っていくのと、ピッチサイドで補聴器をつけたチカが戻ってくるのは、ほとんど同時だった。
「いちばんいいくに、どんなフォトバル。すばらしい? すばらしくない。あそび。あなたたち、かてない。ぜったい。クルブなくなる? へいわ、うらやましいです。うらやましい。やるの、むだ。こんな、くそ──」
 より汚い語句を選んで強く罵ろうとした刹那、唐突に飛び出してきた影がタチアナに頭突きを喰らわせる。ゴッ、という鈍い音がした。補聴器によってタチアナの侮蔑を理解したチカが、実力行使に及んだのだ。不意を衝かれたタチアナも崩折れかけながら殴り返す。
 互いに一撃を加えたふたりはそれが単なるキックオフの合図にすぎないとでもいうかのように、喧嘩を始めた。
 軽量級同士ゆえに傷めはしてもノックアウトには到らない拳の応酬。長引きそうだと思ったぼくは、ふたりのあいだに割って入った。
「やめるんだ」
 力を込めて動きを制する。
 タチアナの妙な激情の原因は、少しは想像がついた。
 先の戦争では日本も近年にないダメージを負った。でも、より戦火が激しく、激動を繰り返してきた中欧や東欧の国民からすると、平和な国に思えるのだろう。
 モルドバでは内戦に様々な勢力が呼応して民族対立が深刻になったと聞く。日本人が平和な環境でお気楽な遊びに興じていると感じて腹が立ったのかもしれない。
 少し落ち着いてきたところで、ぼくはタチアナに向き合った。英語はあまり得意ではないけれど、同情の表現くらいは知っている。
“I sympathize with you who suffered in that war,but……(あの戦争で苦しい思いをしたきみには同情するよ、でも……)”
 ぼくの手は振り払われ、いたわるつもりの言葉は途中で遮られた。
 かわりにタチアナのゆっくりとした独白が始まった。中学で習う程度の誰にでもわかる英語で。

 

“My city was burned.”
 わたしの街は焼かれた。
“My parents were killed.”
 わたしの親は殺された。
“I was……”

 

 ぼくはこらえきれずに人差し指を当ててタチアナの口を閉じさせた。
 スペイン語はわかるかと訊くと、少し話せる、と言う。気づくのが遅かった。ルーマニア語はイタリア語やスペイン語に似たラテン系の言語だ。彼女がスペイン語を理解できるのなら、英語よりもこまかく意図を伝えながら、ほかのみんなにわからないように会話ができる。ぼくは少しトーンを落としてタチアナに話しかけた。
「タチアナ。きみは確かにつらい思いをしてきたのだろう。だからと言って相手を見下すのはよくないな。あのちいさな女の子だって、暴動でけがをした。おかげで耳が聴こえなくなってしまった。でもあきらめないでボールを追っている」
「そうなのか」スペイン語の返事は、いくぶん素直に聞こえる。
「ああ。悪いと思うか」
「……うん」
「じゃあ、謝れるか」
「そうする」
 タチアナは周囲の日本人たちを見廻し、日本語で謝った。
「ことば、ちょっとわるい――だった。ごめんなさい」
 俯くタチアナに里昴が近寄り、肩に手をまわして言う。
「たしかに勝負にならないかもね。あなたは強い。でもわたしたちも強くなるから、ちょっと待ってて」
 事態が収拾しかけたタイミングを見計らったかのように、ギイ、と音を立てて扉が開く。入ってきたのは奏だった。
「なんの騒ぎだ……」奏はこの場の中心にタチアナがいることを確かめると近寄っていく。「里昴、ごめんなさい。この子が迷惑をかけなかった?」
「ええ、まあ……ちょっと。でももう大丈夫ですよ」
 苦笑いする里昴に、奏は頭を下げて何度も謝った。
「姉さん、この子……」
 説明しようとすると、奏はてのひらをこちらに向けて制止した。
「迎えに行く予定だったのだけれど、練習に顔を出すと言い出して。埠頭のほうにはいなかったから、新砂とまちがったんだろうと思ったら案の定」
 事の顛末を知った奏はまるでレフリーのようにタチアナとチカに握手をさせる。そしてタチアナには、これでもかとばかりに何度も頭を下げさせた。もう十分とみるや、奏はため息をつきながらタチアナをアリョーナ、サビーナとともに自分の車に追い立て、そして振り向きざま、
「ちょうどいい。叶、おまえもついてこい。話がある」
 奏は三人を後部座席に座らせ、ぼくを助手席に座らせた。
「なんだよ、急に」
「どうせおまえがあそこにいても娘どもを見てにやにやするだけで、邪魔にしかならない。そんなことより重要な用件だ」
 ぼくは鏡を見た。三人はルーマニア語らしき言葉でにぎやかに話し始めている。込み入った日本語の会話は理解しないだろう。
「外では話せないことなのか」
「まあな。おまえのところの強化部長、柳川やながわ、な。眼を放すな」チェシュラック解任後も何喰わぬ顔で勤務をつづけるふてぶてしい彼をぼくはずっと怪しいと思いつづけていた。しかし姉とはいえ、自分の会社の問題をそうべらべらと喋るわけにもいかない。どう返事をすべきか考えていると、奏は自分から話をつづけた。「チェシュラックさんから、銀星倶楽部を去る際のごたごたについては聞いた。われわれも独自に調査をして――もちろん、クラブ間の移籍交渉でキックバックがわかりやすく懐に収まるような愚はおかしていなかったが、柳川のやつ、袖の下のぶんの利得を、ベリーズに設立した会社を通して架空取引に紛れ込ませていたよ」
 ぼくはこのときまでベリーズの存在を知らなかった。ホンジュラスとニカラグアのすぐ近くにある中米の小国ベリーズはタックスヘイヴンとして有名で、日本人もよくペーパーカンパニーをつくっているのだという。資金洗浄の常套手段で、柳川は小金を得ていたのだ。
「よく調べたね」ぼくは素直に驚いた。
「まあ、こっちはカネもコネもうなっているからな……だいたい、疑問を抱いているのが唯一おまえひとりでは、銀星倶楽部が柳川を探るわけがない。われわれにとってはチェシュラックを雇ううえでわかっておかなければならないことでもある」
「ごめん、ぼくがぼやっとしているから……」
「まったくだ。とにかく、柳川の動きは抑えておけ。それを伝えたかったんだ」
「わかった。じゃあ、ついでだから電話をしてみるよ」
 ぼくは銀星倶楽部の事務所に連絡をとった。応答したのは若手社員の大栗おおぐり。何かとぼくによくしてくれる、気のいい男だ。仕事ぶりも真面目。彼なら安心して話ができる。事務所の様子を訊ね、戻りの予定を報告すると、ぼくはできるだけさりげなく、柳川の所在について訊いた。
「柳川さんですか? 急に、出迎えがあると言って成田空港に向かいましたよ。代理人かなんかですかね」
「そうか」
「伝えておきましょうか?」
「いや、それならいい。たいした用じゃないから、あとで大丈夫」
 電話を切るなり、奏は鋭い口調で言う。
「柳川は?」
「あ、うん。成田に向かったって――」
「何!?」奏はドリフトして車を急停止させた。路面にはブラックマークが残っている。ひと気のない広い路でなければ事故になるところだ。タチアナたちは何事が起きたのかと眼を白黒させている。「いつ?」
「ごめん、時刻までは聞いてなかった。でも、きょうじゃないかな」
「気づかれたか! 証拠隠滅……いや、やつは高飛びするぞ」奏はステアリングを切ると進路を定める。「予定変更だ。この子たちをホテルに押し込んだら、さっさと成田に行く」
 奏は眼を細め、前の一点を見つめた。
「フットボール村で起きたことはフットボール村で解決しないとな」

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