前回までのあらすじ

パラグアイのクラブ「リベルタ」に所属する日本人サッカー選手「群青叶(ぐんじょう・かなえ)」は、南米大陸二大カップ戦のひとつ、コパ・スダメリカーナ遠征に参加。コロンビア西岸の都市カリにてベスト8進出をかけた決勝ラウンドに臨んだ。この試合でPKを外し、サッカー賭博に大番狂わせの結果を招いた群青は、大量の資金流出を余儀なくされた麻薬密売組織の怒りを買い拉致されるが、東京のプロサッカークラブ「銀星倶楽部」常務、松重崇(まつしげ・たかし)によって救い出され、帰国する。

「銀星倶楽部」オーナー上水流領(かみずる・かなめ)の死後、群青は同クラブの社長に就任。経営危機に揺れるクラブの再建に乗り出す。
しかしカジミエシュ・チェシュラック監督の更迭とライバルであるインテルクルービによる彼の「強奪」、銀星倶楽部の女子部にあたるGEKKOコンピュータシステムサッカー部の解散とそれを批難するキャプテン栢本里昴(かやもと・りよん)の出現、インテルクルービへのスタジアムの優先使用権譲渡など、いくつもの予期せぬ出来事にさらされ、新米社長の群青はうろたえるばかり。

問題解決を迫られる群青は、三軒茶屋で反体制勢力による突発的な暴動に出くわす。この際、混乱のさなかで児童を助けだしたことから、地元の愚連隊を取り仕切る男にしてスーパーマーケットチェーンの経営者、山田(やまだ)と出会う。彼なりの目論見で群青を援助したいと申し出てきた山田は具体的な段になり、知恵袋としてホッケー界の裏番だと自称する若い女性アスリート、ミダイを呼ぶ。そのミダイは話し合いのためやってきた里昴から、チームメイトに「蓮田(はすだ)チカ」というろう者サッカー代表がいると聞き、激しく動揺する。そして血相を変え、チカに逢わせてくれと里昴に懇願するのだった。

ミダイは銀星倶楽部女子部の練習場を訪れ、過去にけがを負わせたことをチカに謝る。チカはこれを受け容れた。
練習が始まった頃、インテルクルービの練習と場所をまちがえた外国人の少女――タチアナ、アリョーナ、サビーナ――がグラウンドに姿をあらわす。里昴のはからいでいっしょに練習をすることになったが、これが思わぬ騒動を生んだ。負けん気の強いチカとタチアナがとっくみあいの喧嘩を始めたのだ。群青が仲裁して事なきを得ると、インテルクルービ専務の上水流奏がタチアナたちを迎えに来る。
少女たちとともに車に乗せられた群青は、そこで奏から、銀星倶楽部強化部長の柳川が選手の移籍に際して不当に利益を得ていたことを知らされる。チェシュラックが銀星倶楽部を去る際、群青に告げていたことはほんとうだったのだ。
そして急報。柳川は逃亡を図るべく成田空港へと向かっていた。群青は奏とともに柳川を追う――。

第六話 巡る季節Seasons(scar on the velvet)

tedd02bn 道路も鉄道と同様に都内から成田までのルートは放棄区域(ゾーン)によって隔絶されている。”関所”――検問ではパスポートかその代わりになる身分証明書が必要だ。
 奏が見慣れない黒い硬化プラスチック製のケースを晒すと、係官は専用のリーダーで読み取り、満足そうに頷く。そして、ぼくらを関係者/Governmentの文字が記されたレーンへと案内した。政府関係者のためにしつらえられた専用道らしい。
「こっちのほうが近道だ。少し時間を稼げる」
「ふー……ん」
「ん。なんだ?」奏はミラーでカーブの角度を確かめ、ステアリングをきりながら反応した。
「いや。さっきの黒いの、なんなのかなと思って」
「政府関係機関のIDだよ」
「そんな仕事してるの」
 身を乗り出した反応は少しおおげさだったかもしれない。決まりが悪そうな、少しヴォリュームを絞った声で、説明が返ってくる。
「していた。サッカーにかかわるようになる前に。まだ所属はしている」ぼくがよく呑み込めていないことに気づくと、「学術研究グループだよ。かんたんに言うと、食料やら資源やら統治の状況から地球の未来を予測したり、その未来に対する提言をする任務がある。だから調査で海外をさまよったりすることもしばしばなのだけれど――詳しくはまた今度話そう」
「こうしてみると、けっこう知らないことがある」
 あらためて思う。もし時間をとって話をしたら、きっと初めて聞くことばかりなのだ。
「それは……そうだろう」センターラインを凝視する眼が、ちらと外れる。「何しろ五年間も逢っていなかったのだから。わたしだっておまえの南米での活躍なんてほとんど知らない」
「活躍なんてしていないよ」ぼくは否定した。たいした選手ではなかったのだ。サッカー留学と大差ない存在。日本人という多少の珍しさで、一二番目の序列に置いてもらっていただけ。
「そうか? コパ・リベルタドーレスのサントスとの試合、アシストの一個前のパス、よかったと思うけれど。ノールックっぽく直前まで姿勢を変えずに、右足アウトで斜めに、サイドの奥のスペースに出して……上がってきた右サイドバックがインサイドでクロスを蹴りやすいように、ちょうどいいところにつけられた」
 そんなことはよほどのマニアしか憶えていないだろう。知らないと言ったばかりなのに、矛盾も甚だしい。たまさかその試合だけ観ていたのかもしれないが……でもそこを問いただしたら怒られそうな気がして、ぼくは「ありがとう。あのチームであのポジションだと前に出るのを自重しないといけないから、攻撃でできるのはあれくらいだけれど」と返事をするのにとどめた。
 会話を切り上げ、窓の外を観る。風景が秒刻みで変わっていく。
 スピードが出やすい路を、怖くなるくらいアクセルペダルを踏み込む。まだ補修工事中と思しきコーナーを走り抜けると、空港はもう眼の前だった。

 

 改装した棟のエントランスでは、いまどき珍しいライムライトが、昼だというのに煌々と辺りを照らしていた。遺物で揃えるコンセプトなのか、ニキシー管を模したインターフェイスで、年月日と時刻の表示。
“Welcome to the New World. I will support the departure of you.”
 スクリーンに気取った欧文のテロップ、スピーカーからはネイティヴの話す英語のナレーション。ぼくらは旅立たない。ただ捕まえに来ただけだ。
 それらを無視して走り、第一ターミナル南ウイングへと向かう。スターアライアンスメンバーを使ってロンドン経由で南米に飛ぶなら、ANAでもユナイテッド航空でも利用ターミナルは同じだ。出発ロビーに駆け込んだとき、柳川はチェックインを終え、急いで保安検査場に入ろうとしていた。
 エントリーコードの認証をしようとスマートフォンをかざしたその手を掴む。柳川は声も上げられずに驚いた。
「柳川さん、ちょっとお話が……来ていただけますか」
「急いでいるんだ」柳川は小声で拒んだ。
「すぐすみます。こっちも大事な用なんです」
 ぼくは多少強引に柳川の手を引いた。
 周囲の眼がある。おとなしくついてくるだろうと思ったのがまちがいだった。不意を衝いて手を振りほどき、死角になる背後から走り出した柳川に、ぼくはあっさりと置き去りにされた。
 少し離れたところにいた奏が立ちふさがる。身のこなしは柳川よりも柔らかい。やつが重心を左へ、右へと移しても奏はその行動を読むかのようについていき、先へと行かせない。
 抜けないと悟り業を煮やしたのか、柳川は奏に殴りかかる。
 止める余裕はなかった。ふたりのあいだに飛び込むことしかできない。すると、ちょうど柳川の正拳がぼくの頬を捉えた。
 踏ん張ったところにもう一発。
 痛い。崩折れるのをがまんするのがやっとだ。
 三打目を喰らわせて逃げようという考えだったのか。それが結果的には柳川が脱出する時間を奪った。
 振り上げた腕を何者かに掴まれ、柳川が悲鳴を上げる。投げ飛ばされ、のしかかられると、ぐぇ、と蛙のような鳴き声を発したきり何も言えなくなった。
 すばやい動きで逃亡を阻んだのは松重だった。柳川の腕を極めたまま上半身に体重を乗せて相手の動きを止めている。
「おい群青」沈黙した柳川のかわりに口を開いたのは松重だった。「ちょっと手伝え」
 ぼくは柳川の両脚に全体重を乗せて制圧に協力した。
「松重さん、格闘技の心得があるとか、びっくりですよ。何者なんですか」
「おれはおまえの弱さにびっくりだよ」そして柳川を振り返ると彼を責めた。「観念しておとなしくするか」
 窒息しそうな柳川は頷いた。このまま締め上げたらチアノーゼの様相を呈するだろう。松重は逃げられない程度に力を緩め、柳川を立たせる。そして騒ぎになる前にぼくとふたりで引きずっていき、松重の乗ってきた車に乗せた。
 ぼくはそこで尋問を始めた。
「どうしてあんなことをしたんです」
 そうつついても、柳川はまだしらばってくれていた。
「なんの話だ。わたしは何もしていない」
「不正な人身売買の話です。あなたは選手を売る際に、クラブの懐に入るべき移籍金の一部を着服していた。最終的に移籍するクラブとのあいだに複数のクラブと事務所をかませ、複雑な中間マージンを生み出す。そのなかから別個の経費として請求、タックスヘイブンにある会社に振り込ませていた。選手の売買とは関係のなさそうな商品やサービスへの対価としてね」
「どこにそんな証拠がある」柳川は抵抗した。
「われわれをただのフットボールクラブだと思うなよ。神足グループと月光運輸グループの海外部門が中米を介して南米、ヨーロッパ、アフリカとやりとりしたカネの流れは全部抑えた」自信満々に奏が言えば、松重は「こっちの伝票と照合すれば数字のからくりは解けるんだよ」
 これで柳川はぐうの音も出なくなった。
「柳川さん、ひどいですよ。銀星倶楽部で実績を積ませて市場価値を上げるために、出来の悪い選手まで無理やり試合に出していたでしょう? 息のかかった選手を使わない監督を辞任や解任に追い込んだのはチェシュラックさんが初めてじゃない。監督が使わないとみるやレギュラーの選手に病欠のふりをさせたり、移籍させたり……やりたい放題だ」
 車中で奏に仕込まれた知識を武器に、ぼくは柳川を指弾した。
 悪行をつまびらかにされた柳川は口許を歪ませ、ひと睨みして言う。
「おれを敵に廻せば、もうよそから選手は獲れないぞ」
 これが脅し文句だった。
 たぶんそうなるだろう。銀星倶楽部の強化担当者は実質柳川ひとりだ。その彼は業界歴が長く、協会やリーグ事務局、あちこちのクラブ、日本とのコネクションを持つ外国の代理人に知り合いが多い。パイプが断たれれば、実績がある選手の獲得は難しくなる。
「けっこうです」ぼくは柳川を睨んだ。「不正を見逃してちょっといい選手を手に入れるくらいなら、自分で育てるほうを選びます」
「できるものならやってみろ」
 汚辱を免れないと知り、柳川は捨て鉢に嗤った。彼はこれから先、ぼくと銀星倶楽部の失墜を支えに生きていくつもりのようだ。
「さて、柳川さん。あなたの処分をどうするか決めないといけません。ことがことですから、懲戒解雇は免れませんが、罪を認めて支払い可能な一部を弁済するなら、刑事告訴はしないでおきましょう。世間に対しては全額弁済したことにしておきます。いかがです」
「……ただで済むと思うなよ。だいたい、おまえらがおれに払う給料が少ないからこうなるんじゃねえか!」
 呪詛を吐き、憤怒の形相で柳川は断罪を受け容れた。

 

 神足グループの職員を監視につけて柳川を放すと、奏は、
「さっきはありがとうな」
「何が?」ぼくは礼の意味を訊き返した。
「かばってくれただろう。わたしが殴られそうになったときに」そう言われると照れくさい。ぼくは「うん」と曖昧に頷きながら口をもごもご動かすので精一杯になった。
「松重さんも」奏はいかにもついでという感じで微笑みながら声をかけた。
「はいはい」松重は耳をほじりながら興味なさげに返事をする。
「それに、まさか調査に動いているとは思いませんでした」
 奏は感心したように言う。でもこのときに到るまで柳川を疑っているなどとおくびにも出さなかったことががまんできず、ぼくは松重を責めた。
「調べていたんだったら言ってくださいよ」
「敵をだますには味方からってよく言うだろう」
 瞼を半分閉じ、おもしろくなさそうな顔で松重は答えた。
「……お礼というわけではないけれど、すべての情報はそちらに渡そう。どうするかは任せる」
 そう言って奏は「手柄」をぼくと松重のものにした。
 後日、ぼくはクラブ事務所に報道陣を集めて会見を開き、横領が発覚した事実を発表した。
 柳川と、その一味であることが判明した経理部長――カラ出張などの不正経理までおこなっていた――は懲戒解雇。松重は役員報酬の五〇パーセントを向こう半年カット。そしてぼくは一年間、七〇パーセントの報酬を失う責めを受ける。
「いつ頃、どのようにしてこの事実が発覚したのですか」
 この記者の質問は予想していた。チェシュラック前監督に怪しいと聞いて――と言うと、当人とインテルクルービに火の粉が及ぶばかりか、銀星倶楽部の間抜けぶりが強調されもする。そこを鑑みてつくっておいたとおりに、ぼくは答えを述べることにした。
「プレミアシップ発足でより経理の厳密さが求められるようになることもあり、一月決算を控えて出入金処理を精査していたところ不審な点が見受けられたので、海外の関係者にも協力を得て調査したところ、第三国を介した不正が判明しました」
 過去六年間で一五人、ひとり頭日本円にして二〇〇万円から五〇〇万円の小遣いが柳川の懐に入っていた。総額では五〇〇〇万円近くに達している。
「すでに懲戒解雇処分によって社会的制裁を受けていることもあり、刑事告訴はしない方針です。みなさまに多大なご迷惑をおかけしたこと、深くおわび申し上げます。まことに申し訳ございませんでした」
 再出発を誓い、ぼくと松重はカメラの前で深く頭を垂れた。メディアはこういうときだけ大量に集まるもので、何度もたかれるフラッシュにぼくは眼をしばたかせながら、事の重大性を噛み締めた。
 強化部長と経理部長の合作による大金横領はフットボールリーグにとっても初めての事態で、ぼくらは厳重注意を受けた。今後のライセンス継続、クラブ存続に際して、より厳しい視線に晒されることは言うまでもない。
 印象の悪化による出資の鈍りはもちろん、直近でもっと苦しいのはチーム編成だった。とにかく選手が集まらない。柳川がかかわっていた獲得話がすべてご破産になり、急遽実施したセレクションでも登録数が足りず、大学進学を決めていなかった銀星倶楽部U-18の三年生――最後のユース卒業生――に契約してもらい、ようやく登録枠の二五人が埋まった。
 セレクションに応募してきた経験者は、暴行や買春などの犯罪に絡んで更生中であったり、クラブ内で問題を起こして厄介者として放出されたり、故障明けなど、さまざまな理由でどこからも買われなかったいわくつきばかり。
 これなら、経験はなくとも技術はあるユース上がりのほうが期待できるかもしれない。
 チェシュラックの後を継いで監督に就任した老松尚之おいまつなおゆきは当然不満をまくしたてる。彼をなだめすかして新しいホームスタジアムを視察に訪れたのは新体制発表まであと少しと迫った一月の上旬だった。

 

「ここがわれわれの新しいホームか」現状を受け容れ、平静を取り戻しつつある老松がアウエーゴール裏から大井第二球技場の全景を見渡してつぶやく。「改修後は初めて来たな」
「じゃあ、前回はそうとう前ですね」松重が応える。
「そうだな、一六、七年前か」
 遠い記憶を呼び覚まそうとする老松の眼がレンズの底できらりと光っている。あるいは鮮明に憶えていて、古びていないのかもしれない。サイドを短く刈り込んだ髪も頭頂部はツンと立つ程度のヴォリュームがあり、白髪が多くなっていてもあまり老けた感じはしない。頬骨が恰好のいい窪みをつくり、尖った鼻を持つ鋭角的な老松の顔は、いくらしわが増え黒髪が減ったとしても全体的な印象は若い頃と変わらないタイプで、来年に五九歳を迎えるようには見えなかった。眼鏡をかけた顔は高校生のときには老けて見えたものが、途中で年齢に追い抜かれ、いまでは若さの象徴になっているという感じがする。そこそこの背丈があり贅肉がついていないから、多少実年齢より若い世代に向けたデザインの服でも似合ってしまう。きょうは厚手の長袖丸首シャツに黒っぽいセーターを巻き、高そうなジーンズとイタリア製の革靴を履いていた。歩いて暑くなったのだろう、コートを脱ぎ、手に持っている。
 モノレール大井競馬場前駅からこの大井第二まで歩く道中に見かけたポスターの文句を思い出す。プレミアシップ開設を戦後復興の起爆剤にしようと盛り上げに徹するフットボールリーグ事務局は、あちらこちらに来年から始まる新リーグ誕生を知らせるポスターを掲示しまくっている。本来、プロサッカーに縁のないこの一帯でも、市民アスリートの反応を惹起するべく、大井ふ頭中央海浜公園スポーツの森を中心にキャンペーン図像が掲出されていた。
《GO PREMIER 2030》
 その二〇三〇年には、一九七〇年生まれの老松はちょうど六〇歳。クラブを1部に残留させ、よい還暦を迎えてくれればいいのだが――。
 申し訳ないことに、いまは信頼よりも心配のほうが強い。低年俸を呑んでくれるライセンス所有者がおらず、引き受けてくれる指導者がこの男しかいなかった、消去法で新監督が決定した――という経緯。トップチームでの監督経験がない老松の手腕には不安が残る。去年は強化部に籍を置いたまま協会に出向、様々な穴埋めをさせられながらときおり「やっつけ」に近い臨時招集の年代別代表で監督として若い選手の面倒をみたくらいで、実際の指導にあたった時間が少ない。しかしこちらの心配をよそに、老松は早くもその気になっている。日本人ばなれした容貌も手伝い、雰囲気だけなら欧州の名将だ。
「どのくらい入るんだ」老松はどちらに向くともなく質問を宙に飛ばす。松重がらぬていだったので、ぼくが答えることにした。
「いまは一二〇〇〇人収容ですが、現在進行中の改修で固定席を三〇〇〇席増やして一五〇〇〇人収容とし、シーズンが始まる頃にはディヴィジョン1公式戦開催用件を充たしていて問題ありません。人工芝も現行の規定に則ったものですが、天然芝に張り替えます」
 つい最近仕入れた知識で説明する間に、大井第二球技場に決定するまでの経緯を思い出す。そもそも首都圏のプロサッカークラブ数に対して大型スタジアムの供給が間に合っていないから東京オリンピックの会場として湾岸スタジアムの建設に踏み切ったのに、そこを失くしてから次を探すこと自体に無理があった。
 ディヴィジョン2にいた二〇二二年までの段階でインテルクルービが用いていたスタジアムは、オリンピックに向けて改修した江戸川区陸上競技場、夢の島陸上競技場、私学事業団総合運動場だった。しかしこれらのスタジアムはディヴィジョン1の規格に合ってはいない。それに、たとえ基準に合致していたとしても、急激に人気が上昇、激増したファンを収容するだけのキャパシティはなかった。やむをえず、彼らは二〇二三年のディヴィジョン1昇格以後、国立競技場、駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場、それに埼玉、神奈川、千葉のスタジアムを併用し、首都圏をさすらうジプシーとなった。
 いま立場は入れ替わり、スタジアムの心配をしているのは銀星倶楽部のほうだ。
 ぼくらは最初、インテルクルービと同じやり方を真似ようとしたのだけれど、これはうまくいかなかった。アマチュアカテゴリーの試合で埼玉、千葉、神奈川のスタジアムがいっぱいになり、同じディヴィジョン1のクラブ「セントラル」の公式戦や陸連の大会などで駒沢がほとんど使えず年に二試合が限度、国立競技場も国際大会での使用頻度が高く、こちらも一、二試合ぶんしか空きはなかった。
 ミダイのおかげで東京オリンピック開催以後、女子ホッケーとアメフトの聖地となっていたこの球技専用スタジアムを貸してもらえるようになったことは、僥倖ぎょうこうと言ってよかった。
 ホッケー、ラクロス、アメフト、ラグビー、サッカーのラインが折り重なって引かれたフィールドはそれがマイナスとなるどころか、大井第二独特のルックとして長年競技者に親しまれてきた。メインスタンド側の外壁と屋根はいかにも現代美術的な曲線を組み合わせた設計でそのキュートさはおもちゃ箱のようですらあり、東京オリンピックに向けた改修の際にもそのデザインを活かしたまま四方のスタンドを増設、巨大化した。今回の第二次改修でサッカーの大規模興行にも耐えうるスタジアムとして完成する。とはいえ、インテルクルービに譲り渡した湾岸スタジアムや、横浜国際総合競技場、埼玉スタジアムに比べれば、吹けば飛ぶようなハコであることに変わりはない。
「これでわれわれもビッグクラブからエンダーズに立場を変えることになったわけだ」
 老松がさも決めゼリフであるかのように舌を滑らせながらこちらに眼をやる。
「エンダーズ?」
 ぼくが語尾を上げて問う姿勢をあらわすと老松と松重が顔を見合わせる。ふたりとも、ぼくがその言葉を解しないことが理解し難い様子だった。
「知らないかもしれませんが、最近のサッカー界でよく使われる用語で」答えたのは松重だった。人前では上下関係を気にして、ぼくに向かい丁寧語を駆使する彼は、老松の前でもそのようにしていた。「ボトムズだと順位が底辺であるという意味に限定されてしまうし、プロビンチアだと地方の弱小クラブというニュアンスになる。そこで、代わりになる言葉を探してきて、トップリーグの覇権争いから弾かれた隅っこにいるクラブを、そう総称するようになったんです。都会にだってありますからね、ちいさいところ」
 日本サッカー界独自のターミノロジーから発生した言葉であるらしい。
「隅っこに追いやられた、って感じなんですか」
「はい。恰好よく使おうと”端境者”なんて訳している評論家もいる──よろしければどうぞ」
 言葉あそびでクラブの格が上がればよいのだけれど、銀星倶楽部にはそんな余裕はなさそうだ。身の丈経営も行き過ぎると息が詰まるような節約の連鎖となり、稼ぎを減らしたうえに自転車操業に疲れ果てて解散を加速させるだけだ。そんなことになるなら最初からやらないほうがましだろう。このこぶりなスタジアムから夢と実益を生み出さないと、ぼくらはただ、貧乏地獄を味わうだけのシーズンを送る羽目に陥る。

 

 予算不足から西日本に行けず、マネージャーのつてでいっこうに暖かくならない鴨川でキャンプを実施した。その成果がはかばかしくなく、銀星倶楽部はチームづくりが未成熟のままに開幕を迎えることになった。
 ぼくも現場を気にかけようとしてはいたのだけれど、ラウンドテーブルでクラブの現状を開示してファンにさんざん強化体制を叩かれたり、地元商店会まわりで商店主たちに非協力的な態度を叱られたり、開幕一週間前のキックオフカンファレンスの華やかなインテルクルービブースの隣でまったく取材されない屈辱を味わったりしているうちに十分チームをケアできずに時間が経ってしまった。この間、女子部の移管先が見つかり、看板の掛け替えで四月からの新シーズンに臨むことが決まったのはよかったが、男子については好材料はなきに等しい。
 ろくに取材もしないのにどう調べたものか、補強動向のリストをつけた戦力診断記事は、どこのウェブサイトでも六、七割方正解、というものが列んでいた。それらを要約すると今シーズンの銀星倶楽部像がだいたいわかってくる。
 老松が志向したのは弱者のサッカーを実践するチームだった。
 性悪説に立った、基本的に選手を信用しない方針の。
 フォーメーションは4-4-2。変則的なフォーメーションからスタートして複雑な規則に縛られた動きをするよう求めても選手が理解できず、寄せ集めばかりのメンバーでは熟成に時間がかかるという理由で、オーソドックスな布陣を採用したというのが老松の説明だ。
 流動的なポジションチェンジ、追い越しも禁止された。いたずらにポジションを変えて混乱させたくない、相手に使われそうなよけいなスペースを生みたくないという理由で。この方針のおかげでサイドバックは両方とも上がらず最終ラインにふたをするだけの存在となった。
 中盤の真ん中、ドイスボランチのふたりも守備専門タイプの選手で、ゴール前のバイタルエリアを消すことが主な任務になっている。ボールを持ったサイドのひとりだけが攻撃に参加していいという原則に縛られ、ふたり同時に上がってしまった場合は罰走が待っていた。
 サイドバックが上がれないので、サイドからの攻撃は中盤の両端にいるサイドハーフだけが担当する。唯一、戦術に変化をつける要素としてはサイドチェンジは許可されていて、このためにサイドハーフにかぎっては両サイドが同時に上がってもよいことになっていた。ただそれは、許可されているというより、サイドハーフのみがほかのポジションの穴埋めをするべく走らされるということの言い換えにすぎない。
 タッチライン際を何度も上下動。片方のボランチが上がったあとのスペースのカバー。最初から空き気味のトップ下の穴埋め。
 攻撃でもサイドハーフの負担は大きかった。なにしろ戦術は長身のセンターフォワードに入れた長いボールをセカンドトップが拾うのと、コーナーフラッグ手前、サイド奥のスペースに落とした長いボールをサイドハーフが拾うのと、基本的にそのふたつしかない。しかもサイドのほうにはセカンドトップは助けにこないのに、センターフォワードに入ったボールについては、奪われると嫌だからと、サイドハーフも駆けつけなければならないのだ。
 選手交替もサイドハーフの「部品交換」で二枚を使うことが試合前から決まっている。残り一枚はけが人の発生に備えた枠だけれど、もしその枠を使うとしても、疲弊したセカンドトップかボランチのひとりを替えるためにしか使われず、戦術を変える意図で選手を替える可能性はまったくない。
 セントラルのホーム、駒沢に乗り込んだ開幕戦で、練習試合ではわからなかった実力が白日の下に晒された。
 身長189センチの9番浅沼あさぬまはフォワードとは名ばかりの存在で、まったく足にボールがつかず、飛んできた長いボールを懐に収めることができなかった。得点感覚がないのか、いいポジションに入っていけず、いい態勢で撃つことができない。センターバック希望でセレクションにやってきたのに、背が高く高校時代にやったことがあるという理由だけでセンターフォワードにコンバートした時点で不安があった。それが的中してしまった。
 老松の親戚だという縁故で拾ったセカンドトップの平賀ひらがは、こぼれ球はおろか、浅沼がごく稀にいい落としをしたボールさえも拾えない。起用に際して私情を挟んでいるのではないかと疑われてもおかしくない出来だ。
 事件が起きたのはセカンドハーフも終わりに近づいた頃だった。
 左サイドハーフで先発して八四分間走りまくったフォワードの楠本くすもとが交替を告げられると、ハーフウエーラインからはピッチの外に出ず、ベンチにも向かわずに歩いていく。そしてピッチサイドの看板を大きな音を立てて蹴り上げると、憤怒の形相でロッカールームへと引き上げていった。
 ぼくは試合終了を待たずにメインスタンドから階下に降り、ろくにシャワーも浴びず帰ろうとする楠本を出入口で捕まえた。
「看板を蹴って壊したら処分が下されるぞ。それに途中で帰ったらまずいだろう」
 すると楠本はこちらを振り向き、ぼくを強い眼差しで睨んで言う。
「やってらんねえ、こんなんじゃ」
「どうしたんだ」
「練習を見ていればわかりますよ」激昂したのは一瞬で、楠本はすぐに冷静さを取り戻し、敬語で返事をした。「フォワードとして入ったのに、試合に出ているのはほとんど経験のないセンターバック。高さが足りない、ポストプレーが拙い、だから使わないと言われて、居残りでやってますよ。全体メニューではフリーマンか、外で見ているだけだから。それで開幕当日になってサイドハーフで走れって……先発の予定だった青島あおしまがけがしたからって。あいつはけがをしたふりですよ。いまのチームのサイドハーフじゃ、走らされるばかりで結果を残せないから。そのうち監督が馘首くびになるから、それまで眠ってようって、タカくくってんですよ。おれはディフェンスとこぼれの拾いに追われて、イエロー一枚もらって。なんなんですか!」
「まあ、落ち着けよ」
 ぼくも南米ではベンチにいるほうが多かった。だから選手の気持ちはわかるつもりだったのだけれど、楠本の憤りは手に余った。
「このままだったら絶対降格する。どうするんですか?」
「……いまは弱いかもしれないが、立て直していけば……」
「社長、もう強い弱いじゃないんですよ。壊れかけてるんですよ!」
 そう楠本が叫んだとたん、フィールドから歓声が聞こえてきた。スタンドの狂熱にまじり、ゴールを決めた選手やチームメイト、コーチングスタッフの肉声が伝わってくる。そしてタイムアップの笛が鳴り、スタンドの声援はいっそう強まった。
 勝利の凱歌はセントラルのものだった。アディショナルタイム最後のワンプレーで銀星倶楽部は敗れたのだ。
 出入口はスタジアムの隅にあり、フィールド内をコーナーから見渡すことができる。
 眼に飛び込んできたのは、ピッチ上でうなだれ、膝を落とし、うずくまり、顔を抑えて泣き、あるいは口論してどつきあう銀星倶楽部イレヴンの姿だった。
「ほら」背後から楠本がぼくの肩を掴む。「もう始まった」
 この黒星は何度となく重ねていくそれのひとつめにすぎないのかもしれない。いや、そうなるだろう。予感の外れる可能性がゼロであることに、ぼくは戦慄した。およそ考えられるかぎり、最悪のシーズン・インだった。

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