前回までのあらすじ

パラグアイのクラブ「リベルタ」に所属する日本人サッカー選手「群青叶(ぐんじょう・かなえ)」は、南米大陸二大カップ戦のひとつ、コパ・スダメリカーナ遠征に参加。コロンビア西岸の都市カリにてベスト8進出をかけた決勝ラウンドに臨んだ。この試合でPKを外し、サッカー賭博に大番狂わせの結果を招いた群青は、大量の資金流出を余儀なくされた麻薬密売組織の怒りを買い拉致されるが、東京のプロサッカークラブ「銀星倶楽部」常務、松重崇(まつしげ・たかし)によって救い出され、帰国する。
「銀星倶楽部」オーナー上水流領(かみずる・かなめ)の死後、群青は同クラブの社長に就任。経営危機に揺れるクラブの再建に乗り出した。
しかしカジミエシュ・チェシュラック監督の更迭とライバルであるインテルクルービによる彼の「強奪」、銀星倶楽部の女子部にあたるGEKKOコンピュータシステムサッカー部の解散とそれを批難するキャプテン栢本里昴(かやもと・りよん)の出現、インテルクルービへのスタジアムの優先使用権譲渡など、いくつもの予期せぬ出来事にさらされ、新米社長の群青はうろたえるばかり。リーグの会合ではインテルクルービのオーナー神足一歩(こうたり・かずほ)の正論に圧倒され、非力さを痛感する。
問題解決を迫られる群青は、三軒茶屋で地元の愚連隊を取り仕切る男にしてスーパーマーケットチェーンの経営者、山田(やまだ)とミダイの協力により、女子部全員の就職先と新たなホームスタジアムの確保に成功する。そのミダイが過去にけがを負わせたことを里昴の盟友・蓮田(はすだ)チカに謝罪すべく訪れた練習場で、チカと外国人の少女タチアナがとっくみあいの喧嘩を始めてしまう。インテルクルービとまちがえて銀星倶楽部の練習にやってきたタチアナとともにサッカーをしようという里昴の配慮が招いた事態を、群青はからだを張り収拾する。
タチアナたちを迎えに訪れたインテルクルービの専務であり腹違いの姉である上水流奏(かみずる・かなで)から、銀星倶楽部強化部長の柳川(やながわ)が選手の移籍に際して不当に利益を得ていたことを知らされた群青は、ふたりで成田空港へ。出国寸前の柳川を捕まえることに成功するが、その代償に選手獲得ルートを失ってしまった。
貧弱な戦力を新任の監督老松尚之(おいまつ・なおゆき)はまとめきれず、新シーズンの開幕戦を落とし、不穏な空気が漂い始める。
トップチームに緊張が走る一方、女子部は消滅しかけていたもう一チームとの合体により存続、融合がうまくいっているかに見えた。しかし差別を含む人間関係の悪化で里昴が山田の店を退職すると、本人は落ち込み周囲にも動揺が走る。この非常時に群青は女子部の副キャプテン琴川桜花(ことがわ・おうか)と示し合わせ、里昴の気持ちを落ち着かせることに成功する。そして新しい職場として銀星倶楽部事務所アルバイトの口を提供すると、ようやく里昴に笑顔が戻った。
だが、苦難を経てより結束を強めた女子部と対照的に、トップチームは完全に崩壊。一引き分けを挟む一一連敗を喫し、群青は老松を更迭した。
コネクションがない状態で新監督探しに乗り出した群青は、都リーグの会場で社会人チームの指揮を執るひとりのユニークな男を発見する。試合後に本人から名前を聞き出して調べると、四年前に暴力事件を起こしてサッカー界から離れていた元プロ監督、木瀬正親(きせ・まさちか)であることがわかった。
監督就任を要請する群青に対し、木瀬は「どれだけ負けても解任するな」と要求する。それは責任逃れと失職対策ではなく、クラブの価値観を築くうえで必要なことだった。群青は木瀬を守りぬく覚悟を固め、新監督に据えることを決めた。
木瀬の許で再出発を図った銀星倶楽部トップチーム。内容は向上するが、それがすぐ結果に反映されるわけではない。今シーズンの銀星倶楽部が必勝祈願をしていないと知ると、山田はそれも弱体化の一因だという。オカルト論ではなく、日常の一つひとつを研ぎ澄ませている者が強いのだと。それは平均的な戦力でビッグクラブに対抗している鹿島N.W.O.にも言えることだった。彼らと銀星倶楽部とでは何から何までちがいすぎる。求められていないのなら存在する必要がないのではと悩む群青を、里昴はホームゲームごとに通うおばあさんを例に挙げ、ごくわずかなファンを満足させられないのなら先はない、インテルクルービに負けるな――と励ます。
しかし現実に連敗は止まらず、ますます窮地に追い込まれていく。切羽詰まった状況で、木瀬は群青に対し、現役復帰を要請した。

第九話 乱像分岐群The Ghost Clade

tedd04a「正気ですか!?」
 いちおうプロとしてやっていたわけだから、最低限のプレーができる自信はある。それでも、国内でスカウトから声がかからず年代別の代表歴もない、しかも半年間、実戦から遠ざかり、すっかり背広営業が板についてきたこのぼくを現場に引きずり出そうなどとは、まともな考えだとは思えなかった。
「もちろん」
「ぼくが使えると思ってるんですか」
 もしトップレベルの早い判断と精緻なプレーについていけず無様な姿を晒したらと思うと、どっと冷や汗が出る。尻や背中にさあっと、あるいはぞわぞわとした感覚が走るのがわかった。
「落ち着け。誰も試合に出ろとは言っていない」その言葉で、到来しかけた腹の痛みが遠ざかる。「練習要員だ。単純に人数が足りないということもあるし、ベンチ外メンバーにフリーマンをやらせて士気を下げるのも嫌だしな。紅白戦や戦術練習の穴埋めだと思ってくれればいい」
 それならユースにやらせれば──と言いかけてはっと気がつく。今シーズンは下部組織を廃止し、インテルクルービに子どもたちからスタッフからすべてを譲り渡している。練習参加や二種登録による帯同は不可能だ。
「でも、スタッフがいるでしょう」
 よそのクラブに比べて少なめだとは言っても、トレーニング中にプレーヤーとして参加できる人間がひとりやふたりはいるはずだ。実際、いままではそうしてきた。
「いや、スタッフはスタッフで、なるべく消耗させたくないんだよ。クラブのためだと思って、人身御供になってくれないか」つまり、ぼくならいくらこき使ってもかまわないというわけだ。そういう立場であることは認めるけれど、ちょっと腹が立つ。「それにな、どう転ぶかはわからんが、元選手の社長が現役復帰してチームに尽くすっていうこと自体のインパクトもあると思うんだよ。意気に感じる空気も醸しだされるんじゃないかと思うんだが、どうかな」
 虚を衝かれ、すぐに反応できない。
 少し考える。考えて、それはもっともな話だと思った。
 雇い入れる側の主がふんぞり返っているだけで、牛馬のごとく選手をこき使えば、気分はよくない。あるいは、選手としてのリスペクトを示すにしろ、その姿勢がコロッセオの殺し合いに赴く闘士に対するような高みの見物から生ずるものであれば、やはり気分はよくない。
 でもチームの最下層で汗を流すなら話は別だ。
 もちろん、そんな情けない社長の許で働きたくないという反応もあるだろうけれど、刺激になる可能性も同じくらいはあるんじゃないか。
 試してみるべきひとつの提案としては理がある。
「……相変わらず口がうまいですね。断りにくい」
「だろう」
「しかし、ぼくにも仕事があります」
「まあ、そうだろうな」ぼくの意思を尊重したうえで木瀬は持論を展開する。「承知したうえでひとつ言わせてもらえば──この際だから、ほかのやつにもできる仕事は手放してしまったらどうだ。補充選手は十分、群青社長にしかできない仕事だと思うがな」
 理解はできても、この場で軽々に返事をすることはためらわれた。
「わかりました。でも、ちょっと考える時間をください。あまりに急な話で」
 木瀬はウインクになっていないウインクでぼくにOKのサインを送る。
「大丈夫だ。まあ、できれば今週からやってくれたほうが助かるんだが、心の準備も必要だろうしな」
 登録をするかどうかは別にして、練習を手伝うこと自体には異存はない。ぼくは翌朝、練習が始まる前に木瀬の許へと出向き、自分を練習生として参加させてくれるように頼んだ。
 いくら試合に出ないとは言っても、正式にチームに加わろうという選手なら、まずは練習に参加して実力を確かめてもらうべきだ。もしそこで練習の邪魔になるようなら、すぐに排除してもらってかまわない。ぼくはそう言った。
 日本に帰ってきてからも、隙を見て体力を維持する程度に走ってはいた。九〇分間走りつづけるわけではないのだし、なんとかなるだろう──と思っていたけれど、その読みは甘かったようだ。精度の高いプレーが連続し、かつ切り換えの速いプロの練習では、ミスをするとすぐにどやされる。二度同じミスをしようものなら呆れ、蔑まれるのがオチだから、一瞬たりとも気が抜けない。その精神的な疲労も加わり消耗が激しく、練習が終わった頃には立っているのがやっとだった。
 チームに合流して四日目、試合前日の紅白戦で、ぼくはセカンドチームの中盤の底に入った。中断期間前、最後の試合の相手はインテルクルービ。そのやり方をそっくり真似るのがぼくらの仕事だ。3─2─2─3のMの頂点、仮想バルボーサ伊藤が役割だった。木瀬の新チームで司令塔となっている南部のような巧いパスを出すことは無理でも、力任せに蹴るロングキックはかろうじてサマになる。だからパワーファイター型で力いっぱい蹴る中長距離のフィードが多いバルボーサ伊藤の役を任された。
 セカンドチームのセンターフォワードを務める楠本が、以前よりも向上したポストプレーでボールを懐に収める。周囲のプレッシャーを受けると中盤にグラウンダーで戻した。それをぼくはダイレクトで蹴り返す。ボールは左サイドの奥、コーナーフラッグの手前へと飛んでいき、オフサイドに引っかかるか引っかからないか、ぎりぎりのタイミングで、ファーストチームの右センターバック浅沼の脇をすり抜けた左インナーみなとの眼の前にぽとりと落ちる。湊はなんなくそれをゴールに流し込んだ。練習に参加して初めてのアシストだった。
「やるじゃねえか、社長」
 湊がパシン、と思い切りぼくの頭をはたく。ベテランが率先して“祝福”したものだから、調子に乗って若手に到るまでセカンドチームの大部分がぼくのからだじゅうをどつき、蹴り、倒れたところにのしかかった。
「いい加減にしろよ!」
「ははっ、悪いわるい」
 騒動のとば口にいた湊がぼくを助け起こす。その間、木瀬は冷静に「バルボーサからも同じボールが飛んでくるからな! 気をつけろ」と、ファーストチームの守備陣に注意を与える。
 そのあとぼくはコーナーキックの守備ではストーンとしてニアで飛んできたボールを弾き、攻撃ではターゲットとして一度ヘディングシュートを決めた。一八〇センチあるかないかくらいの背丈だけれども、意外に役に立つものだと自分でも感心した。それがたとえ練習に於ける偶然にすぎなくとも。

 
 ロッカーに引き上げる途中、見慣れた金髪が眼に入った。
「おつかれ」
 言うなり、クッキーのような何かを口に突っ込まれる。もちろん空腹だし、運動のあとにありがたい差し入れだけれど、知り合いでなければ嫌がらせになるところだ。さいわいにも直前に水を呑んでいたので、乾き物が喉に引っかかることはない。ぼくはボリボリと音を立てて飲み下してから返事をする。
「練習、観に来てたの?」
「まあね。ゲームの少し前の辺りから……意外とやるじゃない」
 里昴の褒め言葉は仏頂面とセットになっていた。いつもの調子が戻ってきているようだ。
「何が?」
「アシストになった長いボールとか、いろいろ。想像していたプレーとちがったけれど」
 彼女がぼくの何を知っているというのだろう。積極的に自分のPRをしたおぼえはない。
「どんなんだと思っていたのさ」
「……お姉さんがあまりに褒めちぎるものだから、てっきりもっとゲームの流れを読んで組み立てるのが好きなのかと思っていたのだけれど、フィジカル重視の頭が悪いプレーでびっくりした」情報源は奏か。それなら偏った評価になるのも頷ける。「ねえ、あなたたち、仲悪いの? 姉弟でちがう路に分かれたって聞いて、てっきり……でも遠慮のない間柄みたいだし」
「そりゃあ、片親ちがっても姉弟だから。会社が別でも、そんなに仲が悪くはならないよ」
「……そうよね」
 里昴の眼は三白眼のままで、にこりともしなかった。
「どうかした?」
「ううん、別に」特に悩みがあるようなそぶりはない。「で、いつからメンバーに入るの」
「いや、登録していないから」
「やらないの? そこまでやっといて?」
「うん。社長の仕事もあるし。考え中」
「ふうん。残念。少し観てみたかったんだけれど」
 下のカテゴリーなら、クラブの代表と監督と主力選手を兼ねている例も珍しくはない。会社組織にはなっていないけれど、銀星倶楽部女子部に於ける里昴はまさにそんな感じだ。だからよけい、何を迷う必要があるのか――と思われているのかもしれない。
 それでも、株式会社化しているトップリーグの社長がユニフォームを着てベンチに入るとなると、少々おかしな事態だと思う。げんに、まだ大事にはなっていないが、新聞やネットの記事でこまかいネタにはなっている。もし公式戦でベンチに入るとなれば、タブロイド紙に取り上げられるかもしれない。
 そう、あれこれと考えながら、着替えて外に出る。今度は木瀬に捕まった。彼は里昴の言葉を引き継ぐように言う。
「邪魔にならないようにサイドに置いとこうかと思ったんだが、アンカーでいけるかもな」
「まだやるとは決めてませんよ」
 気が早い。ぼくは既成事実にされないよう釘を差した。
「やったほうがいいと思うけどな……」頑なな姿勢を崩さないぼくに呆れたのか、半ば諦めたかのように言う。「でも実際に肌を合わせてみてよかったろ」
「ああ、まあ、それは」
「ちょっとは選手の気持ち、わかったか? というか、思い出したか?」
「はい。立場はちがうんですけれども――同じ船に乗った仲間なんだな、とは思いました」
 木瀬はにやりと笑う。
「まあ、オフにクビを切りにくくなったことだけはまちがいないな」

 去年まで自分たちのホームだった湾岸スタジアムを借りる。屈辱的ではあるけれど、ここを押さえておかなければ、今シーズンの平均観客動員が三〇〇〇〇人を超えるインテルクルービのファンを収容することはできなかっただろう。同様にあと二試合、人気クラブを相手にしたホームゲームに、湾岸スタジアムを用意している。混乱を防ぐとともに、相手ファンの落としてくれる入場料が、営業上の測り知れないメリットをもたらすことは言うまでもない。
 しかし勝負は別だ。勝点は自分たちのものにしないといけない。
 支持者の数ではインテルクルービに圧倒されていた。本来、ゴール裏のアウエー寄りにあるべき緩衝地帯はかぎりなくホーム側ゴール裏に近いバックスタンド端までの撤退を余儀なくされ、客席の八割以上がボルドー系の赤に染まっていた。
 それでも、二〇〇〇人弱しかいないはずの銀星倶楽部のファンが四〇〇〇人以上も集まったのはありがたい。キックオフが近づくと銀星倶楽部のファンもほとんどすべてが席につき、見栄えはよくなった。インテルクルービのファンに大がかりなコレオ――同一色のプラカードによる絵文字――をつくられてしまったとはいえ、湾岸ダービーの雰囲気を醸し出すことができたのは、エンタテインメントの送り手としては、純粋にうれしいことだった。
 昨日までいっしょに練習していたチームの戦いぶりを、もう一度社長の立場に戻りスタンドから見る。どうしても分析的な視点になる。
 木瀬が指揮する銀星倶楽部の戦術は、複数で相手ボールホルダーを囲んで奪う「ボール狩り」が基盤になっていた。からだがちいさくフィジカルの鍛錬が十分ではない選手たちが一対一で勝つことは難しい、という判断だった。
 ところがふたり、三人で囲んでも、インテルクルービの選手たちは、そのアプローチを容易に跳ね返し、突き飛ばしてゴール方向へと進んでしまう。
 片方のボールサイドに追い込んでも、あっさりと逆サイドに展開され、フリーで走られる。最終ラインを高く上げて前線からプレッシャーをかけようとしても、そのラインのウラに生じる広大なスペースに長いボールを出され、脚の速い相手に走り込まれる。
 前に狭く、サイドに狭く。閉じた空間での勝負に持ち込もうと思っても、インテルクルービはそれを許してはくれない。
 ワイドに拡げるインテルクルービのやり方が、コンパクトに閉じようとする銀星倶楽部の狙いを無効化していた。おそらくチェシュラックは対策を立ててじっくり練習してきたのだろうし、それを実行できるだけの技術が彼らにはあった。
 極端な話、もし密集してボールを奪うつもりなら、パスの出どころとそのパスを受けるレシーバーの二カ所に人員を配置しなければならないが、それにはフィールドプレーヤーの人数を倍に増やさないと対応できない。
 現実的な解として、前からプレッシャーをかけることをあきらめ、自陣深くに一度全員が下がって守備組織をつくり直し、そこに人数をかけるという対処になることはやむをえなかった。この点については中盤と最終ラインとで相談して意思統一できたようで、銀星倶楽部は途中からラインを思い切り下げて後方に守備ブロックをつくり、背後のスペースを完全に消した。こうすればインテルクルービのパスの出し手にボールを持たれても、それを受ける側が思うようにプレーできない。
 一方的に攻められたにもかかわらず、ファーストハーフの四五分間は奇跡的に〇―〇の同点で済んだ。
 だが、このままでは勝てないし、基本のコンセプトに反したプレーをすることになる。降格圏から脱出するには勝点3がいる。ハーフタイムに木瀬は、勇気をふるってラインを上げ、プレッシャーをかけつづけることを要求した。
 持てる能力の最大値でプレーすれば相手を抑えられる。プレッシャーをかけにいってかわされたとしても、味方が次々にカバーすれば穴は開かず、いつかはボールを奪うことができる。
 理論的には正しかったろう。でも現実はプランどおりには運ばない。
 気合を入れ直してピッチに乗り込んだセカンドハーフの立ち上がり、開始わずか一分で、ショートパスのつなぎをかっさらわれて銀星倶楽部は失点した。
 決してバックパスをせず、たとえどんなに狭いところだろうと前を向き、必ずそのボールを通す。そしてゴールへと向かう。パスやドリブルが防がれればスローインに、シュートが防がれればコーナーキックになる。攻めているかぎり、うしろへと戻さないかぎり、マイボールの時間がつづく。銀星倶楽部の選手たちはこの強気を徹底してきていた。
 その本来の戦い方を、木瀬が飛ばした檄によって取り戻したイレヴンは、果敢に前へと進んでいった。この姿勢が仇になった。
 インテルクルービの選手たちは、銀星倶楽部のパスの出し手が蹴る動作に入る少し前、かつ、レシーバーが受ける態勢に入る少し前に、いち早く動き出す。そのタイミングが早すぎれば、パサーもレシーバーもインテルクルービ側の動きに気づいてパスのつなぎを止めることだろう。けれど、動き出しのタイミングが絶妙で、そうはならなかった。銀星倶楽部の選手たちは「しまった」と思う間もなく、不用意にパスをつないでしまう。
 そして、ちょうどいいタイミングで、それを待ち構えていたインテルクルービの選手がインターセプトをする。
 守る相手の脚が遅ければ、ボールを奪われずに済んだかもしれない。でも、彼らは出足も寄せも速かった。ボールを奪ったあとも速く、カウンターには両ウイングのシェウチュークと三沢、それにボランチの桂、三人が加わった。銀星倶楽部がリスク管理を考えて自陣に残しておいた対カウンター要員はゴールキーパーの鐵谷と右サイドバックのアオを合わせてふたり。3対2と数的優位に立つインテルクルービ側が、桂とシェウチュークのあいだで一度パスを交換すると、もうゴールはがら空きだった。軽く、桂が蹴ったグラウンダーのシュートがネットを揺らす。ボールを掴もうとした手を鼻先でかわされたキーパーの鐵谷は悔しがった。
 選手が動揺している隙を見逃さず、三分後にもう一点を加えた。インテルクルービは高い位置でボールを奪うと一気に走りきって銀星倶楽部の選手を置き去りにし、ショートカウンターの速攻で二点め。確実なリードを奪ったインテルクルービは意図的に試合のペースを落とし、膠着した状態にして時間をつぶす。
 終盤、せめて一点でも返そうと、銀星倶楽部の選手たちはディフェンダーまでもが前がかりになって相手陣内に殺到するが、あわてずにボールを奪ったインテルクルービの最終ラインから長いボールが飛ぶ。高く上げた銀星倶楽部の最終ライン、そのウラに通ったボールを、キーパーの鐵谷と一対一になったクシャチェクが、巨躯に見合わぬテクニックで、ぼくらを嘲笑うかのようにキーパーの頭を越すループシュートを決めた。
 ホームで〇―三の完敗。しかもダービーだ。
 三点めが決まった瞬間にメインスタンドとバックスタンドの客はぞろそろと帰り出し、ゴール裏のウルトラスは激しく憤った。
 初勝利を信じ、より強く太鼓を叩き、より高く跳び、より大きな声で叫んだ彼らの震えは怒りを源とするものに変わった。
 怒気。爆発した不満が渦巻いている。ゴール裏の中心部で発生した負のオーラは過疎の部分を易々と舐めるように通り抜け、スタジアム全体に波及した。どす黒い情熱が辺りを覆う。
 イレヴンへの罵声は尋常ではなかった。ぼくはトランシーバーで運営担当者と連絡をとり、警備をゴール裏の前に集中させた。選手とスタッフにはスタンドへの挨拶を省略させ、早々に控え室へ引き上げさせた。
「責任者出て来い!」
 トラメガのサイレンを鳴らしたあと、ゴール裏のウルトラは責任者を呼んだ。この事態についての責任を負うべき人間は社長しかいない。ぼくは意を決してウルトラたちが密集している中心部へと向かう。
「これで一五試合勝ちなしだぞ!」
 コアメンバーと思しき何人かのうちの誰かが叫んだ。
「勝つ気あんのかよ!?」
「降格なら潰れるんだぞ。わかってるのか!」
 クラブを愛すればこそ、禍々しさ溢れる悪鬼と化したウルトラたちから、叱責の言葉が発せられる。
 ぼくは辺りを見た。この状況を静止しようという人間は誰もいなかった。
 味方がいないのなら、誰にすがることなく自分ひとりで訴えるしかない。ぼくは話し始めた。
「一度も勝てなくてごめん! これは全部、ぼくの責任だ」
 すると群れのなかから髭を蓄えた海賊のような男が現われた。がっしりと、頑健な体躯。顎も肩幅も広く逞しい。黒い帽子に紺色のTシャツ。ボロボロのデニムに金具のついたウエスタンブーツ。副リーダー格の男だった。
「群青くんさぁ、責任があると言うなら、どうにかして責任をとるんだよね」
 男は訊ねた。
「もちろん」
「どうする?」
「いままでどおり、ピッチのことは木瀬監督に任せる」彼らからの反応はない。「しばらくは勝てないかもしれない。いま、木瀬監督がこのチームを根っこから鍛え直しているところなんだ。勝てるようになるまでもう少し待ってくれないかな」
 そこで男はようやく大声を上げた。
「てめえ、頭沸いてんのか!? あとひと月連敗してみろ、もう降格決まるぞ!」
「そんなことはない。まだ半分ある。一勝一敗ペースなら、そこからでも残留できる」
「あぁ!? どうやったらこの弱いチームでふたつにひとつ勝てるようになるんだよ!」
「だから、いま時間をかけて、あとでふたつにひとつ勝てるようにしているんだ。目先の勝ちに必死になったところで、この先ずっと勝てる強さなんか身につかない」
「んなわけねぇだろ、おまえどんだけお花畑なんだよ。残留に必要なのは結果だけなんだよ、どんなにぶざまなサッカーでこの先に通用するもんじゃなくても、勝ちゃいいんだよ勝ちゃあ。いまのままじゃ勝てる保証なんかないだろうが! ――もういい。おれらが使えねぇ監督と選手を追い出す。行くぞ!」
 その言葉を合図に、ウルトラたちがスタジアムの外へと走り始めた。
 襲撃だ。
 ぼくはエントランスへと走り、選手バスを早く出すよう、促すつもりだった。けれども、ひと足遅かった。取材をかわしてミックスゾーンを足早に通り抜けた選手たちが乗り込み、バスは出発の準備を整えたものの、いざ車を動かそうとしたときに、進路を塞がれてしまったのだ。
 誰からともなく囲め、という大きな声が響いた。周りを人垣で固められたらいよいよ身動きがとれなくなる。ぼくは慌ててウルトラたちをバスから引き剥がそうとした。
 そこで気がついた。たしかにバスの周りには人だかりができている。でも後方にはそれがない──そしてエントランスを出た先の通路は左右両方に通じ、どちらからも出られる状態になっている。すなわち──。
 ぼくは小声でトランシーバーに向けて喋り、運転手に伝えた。
「急いでバックしろ!」
 言うが早いか、ギアをバックに入れたバスは全速力で、後ろ向きにゆるやかな勾配の坂を上がっていく。呆気にとられたウルトラたちは反応が遅れた。
「待ちやがれ!」
 そうはいくか。ぼくはスタッフや警備員とともに壁を築き、ウルトラの突進を押し止めた。
 当然のように手足、頭が出てくる。ぼくはしたたかに傷めつけられ、仰向けにひっくり返ったが、この程度の代償でチームバスを逃がすことができるのなら安いものだ。選手だけでなく、スタッフの乗ったワゴン車もエントランスから離れていくのが見えた。もう大丈夫だ。
 副リーダー格の男は、選手バスを逃した悔しさからだろう、ぼくの襟首を掴んで無理やり引きずり起こした。
「バスを囲めねぇくらいファンが減っちまったじゃねぇか。どうしてくれる!」
 それを聴いたぼくは嗤った。間抜けぶりを嘲笑しようという気はさらさらなかったのだけれど、つい、おかしくて嗤ってしまったのだ。怒った男はさらに二度、三度と蹴りを入れてきた。本気だった。どこかけがをしたかもしれない。苦しくて話せなくなった。
「ここまでやったら出入り禁止だろうからな。たっぷりかわいがってやる」
 男は言った。
「……出入り禁止にはしない」
 ぼくはなんとか言葉を絞り出した。
「なに?」
「出入り禁止にはしない」ぼくはもう一度声に出した。「これだけ怒るっていうことは、よほどクラブを愛しているんだろうから、これからも応援に来てくれるんだったらありがたい」
 それを聞いた男は、さらにぼくを痛めつけようとする。襟首を引きつけ──ああ、後頭部を叩きつけるつもりか。これはちょっとやばいかもしれない。
 しかしぼくの頭が割れることはなかった。ぼくと路面とのあいだには、松重のからだが挟まっていたからだ。
「群青、大丈夫か」
 相変わらず松重は頑丈だ。
「誰が来るかよ!」
 男は声を荒げて立ち去った。そのあとを、バスを囲むには少し足りない人数のウルトラが追う。もう彼らが銀星倶楽部の試合に訪れることはないかもしれない。
 そこへひょっこりと木瀬が顔を出す。
「もう収まったか?」
「あれ、監督……バスに乗ってなかったんですか」
「ああ。このあと別に予定があるし、騒がしかったからやり過ごそうかと」このような状況には慣れっこなのだろうか。落ち着いたものだった。「殴られたのか?」木瀬はぼくに言った。
「誰のせいだと思ってるんですか……疑うわけじゃないですけれど、これで大丈夫なんですか?」
「疑ってんじゃねぇか」木瀬は苦笑いをした。
「なら、このまま?」
「もちろんだ。いまやり方を変えたら勝てるようになるのか?」
「それは……でも浸透するのに時間がかかるんだったら、練習はこれまでどおりでも、当面の試合はもっとかんたんな方法で勝点を拾ったほうが……」
「かんたんな方法ってなんだ」
「きょうの前半途中からみたいに、引いて守ってとにかく跳ね返すとか」
 ありきたりな答えに、木瀬も少し苛立たしげに言う。
「あのな、弱いから負けたんだよ。それだけだ」
「じゃあ、強くしてください」
「それをいまやってるんじゃないか。まだ始まったばかりなんだ。弱いのに楽して勝てるなんて魔法はない。ちょっとずつ積み上げていって、強くなるんだ。それは最初に納得しただろう」
 もちろん、それは呑み込んだうえでここまでかばってきた。ただ、それにしても、対策を立てられた戦術に対しての修正はあってもよさそうなものだ。それがないなら、結果的には老松と大差ないことになる。
「サッカーそのものを変えろとはいいません。でもこうしたほうがいいんじゃないかという考えはあります。今度相談させてもらいます」
 本来ならGMなり強化部長が言うべきことなのだろう。いまはその立場にあたる人間がいないから、ぼくが言うしかない。
「それはかまわない。楽しみにしてるよ」
 木瀬との会話はそれで終わった。
 翌日、監査役と松重から非公式に呼び出された。
 連敗が止まらず、ファン離れが懸念される現状からの相談という名目。要は、役員やスポンサーの総意に従え、という命令の伝達だ。
 いまのままだと、春先にチームの順位と人気が上がるのを見越して掲げた数値目標に届かない。近々、整理縮小の検討に入るという内容だった。
 来るべき時が来たのだ。白旗を掲げる――。
 まだ抵抗しきっていない。あまりにあっさりとした敗戦で悔しさがわいてこない、そんな感覚に近い。でも、だからといって、はいそうですかと引き下がるわけにはいかなかった。
「ちょっとだけ待ってくれませんか。猶予が欲しい」
 意外にもふたりはぼくの願いを拒まなかった。
「あと一週間。それまでに、何とは言いません、もし現体制での存続を願うなら、何かしらの材料を持ってきてください」
 監査役が言うと松重は頷いた。淡々と事態は進んでいた。

「社長、お客様です」
 すっかり事務仕事になじんできた里昴が言う。
 約束はしていない。誰だろう。そう思いドアの向こうを覗くと、そこにいたのは薄手の上着を手に掛けた、開襟シャツの白さが眩しい奏だった。
「姉さんならそう言ってくれよ」
 構えて損をしたという思いから、ぼくは小声でぼやいた。
「いちおう会社でしょ」
 それを里昴が小声で咎めた。ひそひそ声でやりあうぼくらに、奏が微笑みかける。
「なんだ、仲がいいんだな」
 奏の挨拶を、里昴は「いえ、別に」とやんわり否定し、冷たいお茶を置く。「ごゆっくり」
 話の内容によっては守秘義務が生ずるかもしれないと、里昴が用意したのは狭い部屋だった。けれどここよりは、くだけた雰囲気になりやすい、オープンでも広い打ち合わせスペースのほうが、奏にはよいのではないか。
「場所、変えようか」
「いや、このままでいい。大事な話だ」茶呑み話ではないのか。ぼくが真剣な構えに入ったのを見て、奏は満足したような表情を浮かべる。「銀星倶楽部にとってよい話だぞ」
 それは、インテルクルービと直接関係のない、神足グループ外の関連企業からの出資により、銀星倶楽部が抱える債務を解消、リーグ事務局から借り入れている公式戦開催費も返済し、さらに次年度のクラブライセンス交付に必要な最低予算のぶん、スポンサー料を支払うというものだった。しかも現職員の雇用は保証したうえ、経営方針に介入しない。
 もしひとつの運営会社が同一カテゴリーにふたつのクラブを有した場合、これは規約違反になる。ただし関連性の薄い外郭企業が支援するだけなら特に問題にはならない。そもそも、双方の合意でふたつのクラブが提携すること自体はそう珍しくはない。
 ありえる話ではある。でも、あまりにぼくらにとって都合がよすぎる。
 ぼくの懸念を払拭しようと、奏は多弁になった。
「去年から神足は銀星倶楽部を気にかけていた。やはり、同じ商圏にライバルクラブがあったほうが盛り上がる――と、そういう考えらしい」奏はお茶を呑み、舌と喉を潤す。「だから最悪の場合、どうにかして支援しようとは思っていた。でもできるかぎり自助努力で改善したほうがいいだろうし、叶がどこまでやれるか見たかったのだと、神足は言っている」
「それで、このタイミング?」
「そうだ。このあいだ、銀星倶楽部に勝ってしまったことで、とどめを刺したのではないかと、神足は心配していた。もう動いたほうがいいだろうと、それで――」
「ぼくに親しい姉さんを口説き役によこしたわけか」
 少し刺のある言い方だったのだろう。奏は眉をひそめる。
「不満か」
「そりゃあ……だって、姉さんの言うことならぼくは従うだろう、そう神足さんが考えているってことだろ?」
「ちがうのか?」
 奏はにこにこし始めた。楽しそうな雰囲気のとき、いつもの堅い印象とちがって自分がかわいらしく映ることを、奏はよくわかっている。突き放すだけでなく、媚びることもできる。一種のハニートラップと言えなくもない。このペース、年上の余裕に引きずられてはいけない。
 ぼくはつられて顔が崩れるのをがまんした。
「とにかく、大事なことだから、一度検討してみるよ。内部で相談して……」
「……へえ」
「何?」
「いや、ずいぶん日本の商習慣が身についてきたんだな……と、ね。せっかちな子だったのに」
 どれについて言おうとしているのだろう。思い当たるフシはいろいろあるけれど、反応すれば墓穴を掘りそうな気がする。それでも、少し言い返したくなった。
「もう高校生じゃないんでね」
「そう。そしてわたしも、もう不登校児に手を焼く教育実習生ではない」奏はそう言うと荷物を手にする。「きょうは説明をし終えたということで、お暇する。でも、できるだけ早く返事をもらえるとありがたいな」
 手を振り、去っていく奏と入れ替わりに、里昴が入ってきた。お茶を替えるつもりだったらしい。せっかくなので、そのままやってきたのだという。
「何を話していたの。楽しそうだったけれど」
「別に。仕事の話だよ。ただ……」
「ただ…………何?」
「引っかかる」里昴は神足についてかなり過激な物言いをしていた。彼女には説明しておいたほうがいい。「神足一歩が――」
 さきほどの話を聞くや否や、里昴は血相を変えて反対した。
「それはだめ! きっと、絶対、何かある」席を立ち、ぼくの傍らまでやってきてテーブルに手をついて力説する。「お父さんのグループがほとんど丸ごと乗っ取られたの、わかってるでしょう?」
「まあ、それはそうだけれど」
「あいつに、他人に対する感情なんてないの。利用できるかできないか、それを虫みたいに自動的に判別して、ただそれだけ。いいように使われる。あのひともそうだった」
「あのひとっていうのは、きみの……」
「おかあ……さん。わたしはそう呼んでた」里昴の視線がテーブルに落ち、指が弧を描く。「孤児院から引っ張り上げてくれた。中学校の、音楽の先生。でも、反体制運動にかぶれて、学校も休みがちになって。リーダーの神足にすっかり心酔して“エンダーズ”という組織に入った」
 そこから先は知らないことだらけだった。いまではフットボール業界の専門用語だと思われているエンダーズという単語は、じつは富裕層への抵抗運動に於ける中心的な役割を果たしていた名無しの集団、その組織自体と構成員に与えられたコードネームであること。神足がその罪状を問われず姿を消し、いつの間にか実業家となっていたこと。罪科の大部分を、里昴を育てた女教師の栢本涼風すずかが背負い、収監されていること。
「あまり脅したくないけれど、奏さんも気をつけたほうがいいかも」
 疑いを抱くにあたり決定的だったのは、直後にかかってきた山田からの電話だった。彼の知恵袋となっている影の大立者、田頭から得た情報だという。
《聞いてるか。きな臭い話》
「さきほど、ぼくの姉が使者として来ました」
《それ、やつらが銀星倶楽部を植民地化しようって魂胆らしいぞ。たぶんガワだけ剥いで中身は総取っ替えだ。聞いて驚け、予定されている次期社長は――》
 その名を聞いてもぼくは驚かなかった。なんとなく、そういう予感はしていた。
 だとすれば、返事は決まっている。
 午後になり、少しの時間ができた奏を、ぼくと里昴は捕まえた。神足が里昴の育ての母に罪を着せたこと、銀星倶楽部への支援がじつは乗っ取りであることを伝えると、みるみるうちに奏の顔が蒼ざめていった。
「そんなことをするはずが……」
「じゃあ、わたしが嘘をついているって言うんですか?」恨みに凝り固まった里昴は容赦がない。奏への指弾は緩まない。「奏さんにも身に覚えがあるんじゃないですか。ちょっと大切にしているように振る舞って、結局いいようにされるだけ」
「わたしは……」
「自分勝手なだけの屑みたいな人間ですよ。関係する誰をも適当に食い散らかして、あとは見向きもしない」
「……」もう、奏は何も言えなくなっている。
「どうしようもない銀星倶楽部にいるより、大きい会社にいたほうが何かと仕事も捗るでしょう。若くしてインテルクルービの専務に据えてもらえたら、それは光栄ですよね。カリスマに充ちた精力的なオスの傍にいるのも気分がいい。でもそれ、わたしのおかあさんと同じです」
 重い時間が流れた。ぼくも里昴も、ひとことも発しない。
 永劫とも思える沈黙の果てにかすかな呻き。
 しばらく顔を伏せていた奏が、気丈にも立ち上がった。
「冷静に考えれば、再建後の銀星倶楽部を容れ物にして、ひとやカネを行き来させなければ、投資の効果は薄い。都合がいい、困ったときに使えるバッファのようなもの。それに、実質的に支配していれば、興行的に利用するのもたやすい。こちらにとってはメリットのある話だが――それが真の狙いなら、銀星倶楽部のためにはならない。この話はないな。断ってくる」奏は里昴を恨むことなく笑顔を向けた。「ありがとう。気づかせてくれて。でも、ちょっと踏み込みすぎよ」
「ごめんなさい! あの……」
 里昴も奏を嫌ってはいないはずだ。言いすぎたことはわかっているにちがいない。
 奏は里昴が何かを言おうとするのを押しとどめた。
「これから神足のところに行ってくる。また連絡する」

 次の連絡は翌日の昼すぎにやってきた。電話口から漏れ聞こえる奏の声は息が乱れている。「いま時間はあるか」と訊ね、すぐに「やっぱり忙しいだろうから」と、遠慮する。動揺しているのはあきらかだった。ぼくは奏を自分の部屋に招き入れた。落ち着いて話せる環境が必要だと思ったからだ。
 ここまで何があったかを、奏は息せき切って話した。
 インテルクルービの事務所が入った神足グループのハイテクビルに出勤し、IDを通そうとすると、認証がエラーになった。警備員が駆けつけ、連れていかれた先は通称「取調室」。そこで奏は法務部を通し、解任前提の待機処分を課せられたこととその理由を告げられた。会社の予算とシステムを私的に利用した形跡があるという。どう考えてもでっち上げだが、都合のいいようにデータが改ざんされている以上、抵抗は難しい。
“容疑者”は処分が決まるまで、それまで使っていた執務室から閉め出され、待機室にしか入れない。辞めるまではこの状態がつづく。弁護士同士の戦いに持ち込んでも勝算は薄い。厳重に抗議して最低限の私物を持ち出すのがやっとで、何をしてよいかわからず、ぼくに電話をした。ゆうべ、銀星倶楽部への支援を断られた旨を報告したきり、神足とは逢っていない。そのときは「仕方がないな」という反応だった――。
「どうしよう、叶」
 ふだん見せることのない、弱々しい顔。
 奏の髪が頬にかかり、懐かしい匂いが鼻腔を充たすと、あやうく理性が吹き飛びそうになる。
「姉さん」ぼくはそっと引き剥がす。
 ぼうっとした奏はぼくの動作が意味するところに気づき、せつない顔になる。
「すまない。こういうことをやめようと言い出したのはわたしのほうだったのに」それは事情がわかれば仕方のないことだ。あのときはお互いに辛かった。
「もういいよ」何かを言うのも苦しく、返事は短くなる。
 奏は俯きかげんになる。
「怖くて。ごめん」
 泣きたいのか、笑いたいのか。さみしげに綻ぶ口許から短い言い訳が溢れる。
 ぼくは急に謝りたい気持ちになって彼女を軽く引き寄せた。
「もう少し、こうしていよう」
「ありがとう」
 熱とともにかすかな安堵が伝わってくる。
「うん」
「せめてこれだけ……」
 それを受け容れたらとめどがなくなるかもしれないとわかりながら、ぼくは彼女の懇願を受け容れた。奏のキスはとろけるようだった。

 会社の行方が定まりつつあることから、ほどなくして松重はリーグ事務局へと復帰した。期限までに出すべき妙案とは神足の支援だったのだろうけれど、それを断った以上、銀星倶楽部は潰れるしかない。
 いや、ほんとうにそうなのか?
 まだ何かできることがあるのではないか?
 返答期限の日にはリーグの会合がある。そこで来シーズンのクラブライセンス継続についての沙汰を仰ぎ、その保証でどうにか――。
 極論すれば、借金漬けでもそれをリーグが許せばとりあえず存続は可能だ。そこに賭けてみるしかない。
 腹案を抱えて臨んだ会合の席に、インテルクルービの代表としてやってきていたのは、進藤武仁社長と新任の専務、松重崇だった。
「お早い“復帰”ですね」
 ぼくが水を向けると、松重は表情を変えずに返事をする。
「予定が変わりましたからね。本来なら管理役としてそちらに残るはずでしたが、話が消えたのならいる意味がない。オーナーにはさっさと戻って来いと言われました――では」
 松重は悪びれることなく、進藤を伴い会議室へと入っていく。
「やれやれ、とんだ食わせ者だな、あいつは」
 ぼくの背後から声がかかる。
「ああ。いまの聞いた?」
「うん。まったくふてぶてしいというか――まあ、わたしもひとのことは言えないがな」
 そう言うと、奏はスーツの襟に差した星印のバッヂを示し、笑みを漏らす。この日が彼女の、銀星倶楽部常務としてのデビュー戦だった。

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