田崎健太
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)など。最新刊は『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com
ブラジルサッカーの未来を背負うネイマール。天才と呼ぶに相応しい選手だが、王国では才能のある選手は珍しくない。その中から将来セレソンになれる選手はごくわずか。才能はいかにして磨かれたのか。最新号の『サッカー批評issue66』(双葉社、1月10日発売)では、“10番”の源泉、サントスを訪ねている。その一部を紹介する。
Jリーグに最も多く、日本サッカーのレベル向上に一役買ったのがブラジル人だ。彼らを引き寄せたのは“金”ではあるが、Jリーグに無知でないことも理由の一つだろう。意外なことにJリーグは草創期にブラジルで放送されているのだ。それを実現したある日系人の足跡を追う。
ジュニーニョ・パウリスタは現ブラジル代表監督のルイス・フェリペ・スコラーリ(通称フェリポン)の切り札的存在だった。優勝した2002年も招集され、ここぞというときに起用された。フェリポンを熟知する男が、その手腕を語った。
日本サッカーにとって一大決戦となるブラジルW杯。メディアやサポーターにとっても重要なイベントだが、地球の裏側で行われるということで、移動には苦労しそうだ。ブラジルへは遠距離のため様々な行路がある。快適な旅程を組むことも“戦略上”必要だ。
サンパウロのメンバーとしてACミランを下し、トヨタカップを制したジュニーニョ・パウリスタ。名将テレ・サンターナに“秘密兵器”として重用された彼だが、トヨタカップのときはなぜかサイズの合っていないユニフォームを着ていた。
日韓W杯の優勝メンバーの一人、ジュニーニョ・パウリスタ。彼は現在、イトゥアーノというサンパウロ州一部のクラブの会長を務めている。そして驚くべきことに会長兼選手だったこともあったという。現役最後、そして会長として最初に彼は何を成し遂げたのか。
日本代表のブラジルW杯の合宿予定地として、イトゥという地名があがっている。果たしてここはどんな街なのだろうか。W杯で戦う上で最適な場所なのだろうか。ブラジル取材を続ける筆者が現地を訪ねた。
現在、東京ヴェルディでコーチを務める菅原智。彼はブラジルでのプレー経験がある。所属したのはサントス。王国でプレーするとはどういうことなのか、地球の裏側で生活することとは? 本人にインタビューし、ブラジルの魅力を探った。
現在、東京ヴェルディでコーチを務める菅原智。彼はブラジルでのプレー経験がある。所属したのはサントス。王国でプレーするとはどういうことなのか、地球の裏側で生活することとは? 本人にインタビューし、ブラジルの魅力を探った。
現在、東京ヴェルディでコーチを務める菅原智。彼はブラジルでのプレー経験がある。所属したのはサントス。王国でプレーするとはどういうことなのか、地球の裏側で生活することとは? 本人にインタビューし、ブラジルの魅力を探った。
Jリーグでプレーしたことから日本でも馴染みの深いフッキ。ブラジルではなく国外で頭角を現したが、ジエゴ・コスタとは異なり、彼はセレソンにこだわった。アントニオ猪木のようなオーラを醸し出していた屈強な男に選択に迫る。
ブラジル国内でも大きく報じられている、ジエゴ・コスタのスペイン代表への選出。ブラジル出身のジエゴ・コスタは、なぜスペイン代表でプレーすることを選んだのか?
ドゥンガが招集したセレソンのメンバーは物議をかもした。ロナウジーニョも当時の期待の若手も呼ばれず。ドゥンガが重要視したのは「スピリット=魂」だ。そこには本田圭佑を絶賛したこととも通用するものがある。
ブラジル代表監督を務めたドゥンガ。実はセレソン以外での監督歴はなかった。ドゥンガはセレソンに変革をもたらしたが、批判もされた。その一つがロナウジーニョをメンバーから外したことだ。
日本人にも馴染みの深いブラジル人選手、ドゥンガ。ジュビロ磐田で一時代を築き、ブラジル代表でも活躍した。現役中からドゥンガはチャリティ活動をしてきた。ブラジルの貧民街は日本では想像もつかないほど過酷だ。