【特集・3/11を忘れない】支援活動から思索する未知のサポーター像(前編)

2013年03月09日(Sat)10時41分配信

text by 清義明 photo Kenzaburo Matsuoka
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地域コミュニティ不在の拠り所となったJリーグ

 日本のクラブチームは、そのほとんどが株式会社によって運営されている。それは株主によって所有されて、その利益のために存在することは言うまでもない。営利のためのプライベートカンパニーが、原則的に消費者を顧客としての意味を超えて取り扱うことはあり得ない。しかし、ファン・ビジネスやエンターテインメント・ビジネスは、それをできる限り隠し通すことによって成り立っている。

 地域の中のクラブチームという見取り図や、自立しながらクラブの繁栄にポジティブに関与していく個人の集まりという概念は、Jリーグの永続的な繁栄を保証するためのマーケティング的な仕掛けである。

 ところが、そのトリックめいたマーケティング的な仕掛けは、スタジアムに集う人たちによって、本来の役割を超えて、ひとつの思想に昇華され始めていた。

 毎週のスタジアムで自分の愛するチームを応援するために通いつめる。そこには、仲が良かろうと悪かろうと、必ず決まった人々がいて、お互いに顔を突き合わせなければならない。近隣の住民がなにをしているかわかりもしないで日常を暮らしている都市の人々には、まるで今や失われた地域コミュニティのように、スタジアムが存在し始めた。応援やシートの列ならびを通じて、町内会のような自治組織も出来上がる。血気盛んな若者は、南米のファンを真似て、祭礼の神輿のような興奮を求めるために、仲間たちとバンデーラ(応援に使う襷)をスタジアムに出し始める。

 スタジアムの中に発生したつながりが、新しい「ふるさと」や仮想の地域コミュニティのように立ち現れ、やがてそれらを統合する原理として、地域の中のサポーターとして自らを位置づけることを始めた。

 こうして「わたしたちは単なるお客ではない、サポーターなのである」という錯視の中で、サポーター像が自立してふるまうようになっていった。その時「サポーター」という存在を単なるマーケティング的な修辞の問題として取り扱うことは、もはやできなくなった。

 団塊ジュニアの世代が、地域コミュニティ不在の拠り所を、Jリーグに求めたという論考は、三浦展の『難民世代』(日本放送出版協会)に、足早ながら語られている。

 本来ならば、営利企業の論理をねっとり脂ぎらせて、Jリーグのサッカークラブチームは存在している。ところが、それをとりまくサポーターは、商品ではなく、あたかも、地域コミュニティとしてクラブチームを見出し始めているのだ。

 ベネディクト・アンダーソン(米・政治学者)は、外部からもたらされた概念が、「モジュール」(システムを構成する部品)のようにその地域の人々に導入され、それをもとに人々が共同体を想像的につくりあげてきた、とナショナリズムの歴史を分析した(『想像の共同体』書籍工房早山)。これと似たように、サポーターという概念が、「モジュール」として、日本のスポーツシーンにうまく導入され、そして人々の中で想像的に機能し始めたわけである。

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