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【特集・3/11を忘れない】塩釜FC小幡忠義理事長インタビュー ~被災地救援を支えた塩釜FCの絆~(前編)

text by 木村元彦 photo by Tadayoshi Obata

美談を作る場所ではない

 塩釜FCが支援の拠点として大きく認知されていったのは当初、行政による避難所の対応がお役所的であったことも挙げられる。あるボランティアはこんなことを言った。

「洗濯機が送られてきたので避難所に運んだら、要らないと言われたんです。仕方なく持ち帰って翌朝、テレビを見たら、同じ避難所が映っていて『洗濯機が足らない』と言っている。要するに自分の仕事を増やしたくない人が断っていたんです。もう自分たちでやるしかないと思って何かあると塩釜FCやアトリエゴールに相談するようになりました」

 やがてあちこちから「水が足らない」「ミルクが足らない」という声が入ると、誰かが持っていく。石巻の若い母親から「母乳が出ない」というつぶやきがツイッターでなされたときも即座にスタッフが反応した。

「おい誰か粉ミルクを持っていけ!」。警察も協力してくれた。塩竈の交番の若い警官は連日ドロにまみれてガレキをどけたり遺体を収容していたために着替えの制服が追いつかず、鑑識の服を着て活動していた。彼はいつも一日の終わりには小幡の家に寄って疲れを癒していた。水道がいち早く復旧すると、まだ水の通らない多賀城や七ヶ浜などの人々に向けてすぐ開放し、自宅の風呂も使用してもらった。


クラブ出身でガンバ大阪(※当時)の佐々木勇人選手も駆け付け、避難所などを回った。

 巣立っていった選手たちも時間を縫って続々と駆けつけてきた。小幡が「勇人」の名づけ親となった佐々木(ガンバ大阪)が大量のグッズを持って現れた。遠藤康(鹿島アントラーズ)はACLを戦う最中、「何が必要なのか?」「何の援助が急用か?」毎日電話をかけてきた。塩釜FC三期生の重鎮、加藤久も頻繁にやってきては率先して情報を収集し、時には子どもたちに即席でサッカーのストレッチの方法やボールの扱い方を教えた。

 ある日、会員の高校生が親と一緒に訪ねてきた。家、財産を失い、もう会費を払えないのでクラブを辞めたい。その挨拶ということだった。小幡は止めた。「お金は気にしなくていい。サッカー続けろ。こういうときは助け合うんだ。うちはね、選手じゃなくて人間を育てているんだ」

 かつて、学校や公民館といった公的な施設が普及する以前、日本古来の寺がその地域の住民たちのよりどころになったように、塩釜FCは緊急時にその役目を果たしていた。「寺ですね」と小幡に言うと、「そうね。うちは駆け込み寺かな」と笑った。一方で、テレビ局のクルーを連れて来ようとしたJリーガーには来訪をきっぱりと断った。

「美談を作る場所ではない。マスコミには美談よりも事実を伝えて欲しい」

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