数々のタイトルを獲得してきたイタリア代表には、常に世界最高峰の才能が集ってきた。その一方で、クラブレベルでは伝説的な実績を残しながらも、輝く機会に恵まれなかった名手たちも存在する。なぜ彼らは代表に定着できなかったのか。今回は10人の選手をピックアップして紹介する。[5/5ページ]
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FW:ファブリツィオ・ミッコリ
生年月日:1979年6月27日
主な所属クラブ:パレルモ、ユヴェントス
イタリア代表通算成績:10試合2ゴール
イタリア半島の“かかと”に位置するプーリャ州レッチェの生まれの小兵ストライカー。敏捷性とテクニックを兼備し、“サレント半島のロマーリオ”や“ナルドー(生まれ故郷)のマラドーナ”といった愛称を持つ。
パレルモをはじめとし、ユヴェントスやフィオレンティーナなどでプレーし、育成年代にはミランにも所属。キャリア通算では200得点以上を記録し、そのうち81得点はパレルモでマークしたものだ。
パレルモではクラブ史上最多得点記録を保持。セリエAにおけるクラブ最多得点(74得点)、さらにセリエAでの最多出場(164試合)も記録しているロザネーロ(パレルモの愛称)のレジェンドである。
タイトルには多く恵まれなかったが、ユヴェントスでは2003年にスーペルコッパ・イタリアーナを、そのユヴェントスからレンタル移籍したベンフィカでは2005年にポルトガル・スーパーカップを制している。
イタリア代表には、ユーヴェに在籍した2003年、ジョヴァンニ・トラパットーニ監督によって初招集を受け、この年の5試合に出場。初得点は、2004年3月31日のポルトガルとのテストマッチで、11月17日のフィンランド戦でも得点を挙げている。
09/10シーズンのセリエAでは、パレルモで19ゴールを挙げる活躍を見せたが、2010年FIFAワールドカップを戦うマルチェッロ・リッピから声はかからず。
規律を重んじる2006年大会優勝監督のリッピのお眼鏡にかなうことはなく、シーズン終盤の右膝の負傷もあって、最終的に招集されることはなかった。
前述のフィンランド戦がアッズーリとしてのラストマッチとなってしまった。
2009年9月、スポーツ面での功績によりパレルモ県コルレオーネ市から名誉市民権を授与されたが、裁判官であり、マフィアによって暗殺されたジョヴァンニ・ファルコーネに関する侮辱発言をめぐる論争を受け、2013年7月にこの称号は剥奪された。
さらに、マフィアとの関係が取り沙汰され、恐喝容疑で禁固刑を言い渡されるなど、黒い噂が絶えなかった。
それでも、パレルモのサポーターからの絶大な評価は変わらない。
現在は、レッチェで設立した自身のサッカースクールにも力を注ぎ、また、家族とともにB&Bを経営している。
【著者プロフィール:佐藤徳和】
1998年にローマでの語学留学中に、地元のアマチュアクラブ「ロムーレア」の練習に参加。帰国後、『ポケットプログレッシブ伊和・和伊辞典』(小学館)の制作に参加し、イタリア語学習書などの編集、校正、執筆に携わる。2007年から、フリーランスとして活動し、主にイタリア・サッカー記事のライティングに従事。2014年には、FC東京でイタリア人臨時GKコーチの通訳を務める。IL ROMANISTA、日本特派員。『使えるイタリア語単語3700』(ベレ出版)、『イタリア語基本の500単語』(語研)を共同執筆。日伊協会では、カルチョの記事を読む講座を開講中。X:@noricazuccuru
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