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Jリーグ 11年前

【特集・3/11を忘れない】4/23Jリーグ再開決定までの舞台裏 ~リーグ関係者、44日間のドキュメント~(前編)

text by 井上俊樹 photo by Kenzaburo Matsuoka

3月17日 中野幸夫専務理事が仙台入り

 第2回合同実行委員会の開催決定は決まったが、その後も鹿島、水戸、仙台との相互連絡は困難を極めた。

 1回目の委員会で、議論の主軸は明確にしたものの、スタジアムの損壊状況、インフラ整備の状況確認よりも、3クラブはいずれもライフラインの確保で精一杯だった。

 しかし、被災クラブの現状を確認しないと次の議論は始まらない。こうした中、Jリーグは被災地クラブへとスタッフを派遣した。「被災地は、とにかく生きていくことに必死なんです。クラブスタッフも当然、電話など受けている場合ではないタイミングもあるわけです。被害の小さかったクラブと同じトーンで話していて、いいはずがないんです」(中西)

 皮膚感覚の問題だ。人に何かを伝えようとする場合において、メールよりも直筆の手紙、電話よりも直接対話する方が気持ちは伝わる。メールというコミュニケーションツールだけでは、相互理解を深めることなどかなうはずがなかった。この緊急事態においては、回線復旧の問題以前に、電話連絡すること自体がはばかれた。思い・思考を言語化することに対して伴う重みを鑑みれば、当然だった。

 3月17日、中野幸夫専務と事務局員が新潟に新幹線で入り、そこから車で仙台入りした。手倉森誠ベガルタ仙台監督から直接「4月の開催は無理です」と報告を受けた。3月19日には競技・運営部大森洋次郎アシスタントマネージャー、競技・運営部大矢丈之が鹿島に、事業部の伊藤慎次アシスタントマネージャー、事業戦略室板垣伸典が水戸に赴いた。

 話は数日さかのぼる。3月14日、Jリーグは日本サッカー協会から、「3月29日に、日本代表と『Jリーグ選抜』とのチャリティーマッチができないか」と打診を受けた。3月29日はキリンチャレンジカップ・ニュージーランド戦(国立競技場)が予定されていた。日本協会は当初、予定通り開催の方針を打ち出していたが現実問題として開催は困難だった。協会の打診は“日本サッカー界として今、自分たちにできること”を必死に模索した結果だ。

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