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コラム 3か月前

「オファーはある」ベラルディはなぜサッスオーロに残るのか。幼少期の縁に移籍未遂…。“最後のバンディエラ”の真実【コラム】

シリーズ:コラム text by 佐藤徳和 photo by Getty Images

偶然が導いたサッスオーロとの縁

 舞台は2010年。ドメニコは、大学に通っていた兄フランチェスコをモーデナに訪ねる。2人はフットサルの試合に参加した。年上の選手たちを相手にドメニコは圧巻のプレーを見せ、参加者たちを驚かせる。

 その中にいた兄の友人の一人が、試合後にドメニコに打ち明ける。『サッスオーロのユース部門で働いている友人が今いるんだ』。その人物の名はルチャーノ・カルリーノ。ドメニコにサッスオーロでのトライアウトの機会を与え、クラブはすぐに彼と契約することになるのだ。

 運命とは、実に奇妙なものである。もしベラルディが兄を訪ねていなかったら、もしこのフットサルの試合に参加していなかったら、もしカルリーノがその場に居合わせていなかったら、ベラルディがサッスオーロでプレーする機会は、訪れなかったかもしれない。

 やがて、どこかのプロクラブでプレーするチャンスを得ていたかもしれないが、サッスオーロがベラルディとサインを結ぶ可能性は極めて低かったはずだ。

 そして、もしベラルディとの契約が結ばれていなければ、サッスオーロがこれほど長くセリエAを主戦場とすることもなかっただろう。

 いや、クラブ史上初のセリエA昇格を決めたセリエBの12/13シーズンに11得点と6アシストをマークすることとなるベラルディとの一期一会の出会いがなければ、そもそもサッスオーロがセリエAの舞台に立つことさえ実現しなかったのかもしれない。

 モーデナ県の小都市サッスオーロの名がイタリア全土に知れ渡ることもなく、ましてやその名が遠く極東の日本に届くことなど、あり得なかったはずだ。それほどまでに、ミンモとUSサッスオーロの出会いは、偶然が幾重にも重なった邂逅だった。

 ミンモ・ベラルディの名が一躍イタリア全土に轟くこととなったのは、2014年1月12日、本拠地マペイ・スタジアムでのミラン戦だ。

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