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コラム 3か月前

「カピターノにはふさわしくない」フロレンツィはなぜロマニスタから批判されたのか。人々を熱狂させた男が背負った重圧【コラム】

シリーズ:コラム text by 佐藤徳和 photo by Getty Images

“サッカー狂”の家庭で育ったフロレンツィの原点

 フロレンツィは1991年3月11日、ローマ市内の南西に位置するヴィーニャの生まれだ。第二次世界大戦中、イタリアが降伏を宣言した1943年9月8日、近郊の燃料補給基地では、ドイツ軍による奇襲があった。この地には第二次世界大戦時の哨戒施設や防衛用のバンカーが今も残されており、歴史の証人となっている。

 町は1946年に誕生し、戦後に生まれたローマ地区の中で最も古く、当初はリザーロと呼ばれていた。自ら“サッカー狂”と呼ぶ家庭で育ち、父ジージも兄エミリアーノも高いレベルのアマチュアリーグでプレーした。

 幼少期から、ローマのファンとして育ち、同名の友人、アレッサンドロから、ラツィアーレ(SSラツィオのファン)に“改宗”するように激しい“プレス”を受けたが、ロマニスタを貫いた。最初にプレーしたクラブはAXAだった。フロレンツィ家と縁のあるクラブで、父もこのチームでプレーし、母は練習場に付属するバールで働いていた。

 その後、9歳でASロディジャーニでプレーすることとなる。トッティやルカ・トーニなども輩出。トップチームは当時、セリエC1に所属し、ローマ第3のプロクラブとして名を馳せていた。2015年のクラブによるインタビューでフロレンツィは、当時を懐かしみながら、回想している。

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