代表チームに名を連ねるということは、ごく一握りの選手に与えられた特権である。各選手は所属クラブでの活躍が評価されて代表に招集されるが、なかにはクラブで素晴らしい成績を収めているにも関わらず、不思議と縁がない選手も存在する。今回は、所属チームで活躍しながらサッカー日本代表にほとんど(もしくは全く)呼ばれなかった選手を10人ピックアップする。※データは『Transfermarkt』を参照。キャップ数はA代表のみ。[4/5ページ]
FW:小倉隆史(おぐら・たかふみ)
生年月日:1973年7月6日
主な所属クラブ:名古屋グランパス、エクセルシオール・ロッテルダム(オランダ)、ヴァンフォーレ甲府
代表キャップ:5試合1得点0アシスト
破壊的な左足を持つことから“レフティーモンスター”の異名を取った小倉隆史の場合、サッカー日本代表に定着できなかった理由ははっきりとしている。
代表合宿で負ってしまった大怪我がなければ、小倉の代表キャップ数は「5」にとどまらなかったはずだ。
四日市中央工業高校時代から、小倉の才能は群を抜いていた。
3年生時の1991年度に行われた全国高等学校サッカー選手権大会で優勝(帝京高校との同時優勝)。1993年開幕のJリーグに参加予定のクラブからオファーが殺到し、小倉は海外留学に寛容だった名古屋グランパスエイト(現:名古屋グランパス)に入団する。
1993/1994シーズンには、エクセルシオール・ロッテルダムで途中加入ながらオランダ1部リーグで15得点をマーク。得点王争いを演じるなど、海外でプレーする日本人選手が少ない時代において鮮烈な輝きを放った。
しかし、1996年2月にはアトランタオリンピック(五輪)最終予選直前の代表合宿で右足後十字靭帯を断裂。
この怪我の影響で得意の「左斜め45度からのシュート」は影を潜め、2006年2月10日に現役引退するまで小倉を苦しめ続けた。
1994年5月22日のキリンカップ・オーストラリア代表戦でAマッチデビューを果たした小倉が、怪我無くキャリアを全うしていたとしたら…。
Jリーグ創世記を知るファンからすれば、日本サッカー界に数多く存在する“If”の中でもつい考えてしまう事柄の1つかもしれない。
