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コラム 3週間前

「過去に戻れるなら…」元イタリア代表DFの壮絶なキャリアと人生最大の後悔。引退を機に明かした全て「親愛なるカルチョへ」【コラム】

シリーズ:コラム text by 佐藤徳和 photo by Getty Images

 元イタリア代表で、将来を嘱望されていたDFマッティーア・カルダーラが今年、現役引退を決断した。キャリア晩年はケガの影響もあり、なかなか輝けず。かつての姿を取り戻すことないまま、スパイクを脱ぐ結果となった。そんなカルダーラが、壮絶なキャリアを振り返っている。大きな苦悩と、人生を変えた後悔とは。(文:佐藤徳和)[1/2ページ]
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イタリア代表経験者のカルダーラが引退

元イタリア代表のマッティーア・カルダーラ
【写真:Getty Images】

 サッカー選手にとって、移籍はキャリアの分岐点となる大きな出来事だ。とりわけ、その新天地がビッグクラブとなれば、誰もが胸を高鳴らせ、壮大な夢を抱く。

 一抹の不安を感じる者がいるかもしれないが、成功を思い描けない者などいない。もし失敗ばかりを考える者がいるとすれば、それは臆病者でしかない。

 マッティーア・カルダーラが、11月15日に現役引退を表明した。セリエAで通算127試合に出場し、イタリア代表としても2試合でピッチに立った。

 若き日の名声を知る者にとっては、彼が歩んだキャリアは“失敗”に写るかもしれない。

 だが、彼は決して立ち止まることなく、幾度もの負傷に屈せず、度重なる困難に立ち向かい続けた“勇者”だった。

 突然の引退の知らせだった。カルダーラはカルチョへの別れの手紙を綴った。ジャーナリスト、ジャンルーカ・ディ・マルツィオの公式サイトに、手紙が公開されると瞬く間に「カルダーラ引退」のニュースが広まった。

「白い紙、一本のペン。目を閉じ、息を吐く。そしてもう一度目を開く。ついに、その時が来た。親愛なるカルチョへ、君に別れを告げる。僕は引退することを決断した」

 昨季はセリエBのモデナFCでプレーした。リーグ戦の26試合に出場し、先発出場は22試合だった。

 今夏に契約満了で退団し、所属先は決まっていなかったものの、多くの人はまだどこかのクラブと契約し、サッカーを続けるだろうと思っていたことだろう。

 しかし、カルダーラは2024年9月12日にも、その夏に現役引退の可能性があったことをディ・マルツィオに打ち明けていた。

ミラン退団時点で「引退を考えたことも…」

 ミランとの契約が2024年6月30日で満了となり、7月2日にモデナFCと1年契約を締結したカルダーラは、モデナFCの熱いラブコールに応える形での加入となったことを明かしている。

「自分の選択にとても満足しているよ。夏にスポーツディレクターのアンドレア・カッテラーニが何度も電話してきた。信頼してくれているのが伝わってきたんだ。会長とも会って、すぐに“この人たちなら”と感じた。本当に素晴らしい人たちだ」

 そして、「引退を考えたこともあった。無数の質問を自分に投げかけた。でも、正しい答えには一度もたどり着けなかった」と語り、ミランを退団した時点で引退の可能性があったことを激白している。

 それゆえ、カルダーラをよく知る人物にとって、今回の引退発表は驚くものではなかった。

 1994年5月5日にベルガモで生を受けたマッティーア。幼少期に市内のサッカークラブ、USDスカンゾロシアーテでサッカーを始めた。

「初めての練習のことはよく覚えているよ。祖父が付き添ってくれたんだ。到着すると、広大なグラウンドが目の前に広がり、子どもたちで埋め尽くされていた。

 あの時は、そこが自分にとっての“家”になるなんて思いもしなかったけど、その場所はやがて、今の自分を形成してくれた大切な“家”になった」

 そして、10歳の時にアタランタに移籍。少年時代を回想している。

17歳の時に大怪我。それでもプロの世界で躍動

「友人たちとオラトーリオ(教会付属の児童施設)でやったミニゲームやアタランタの一員として出場したトーナメントの数々、父とのバイク旅行、そして試合に行く前に母が作ってくれたパスタのことを思い出すよ。いつも、サッカーとともに、サッカーのためにある日々だった」

 ミランでの度重なる大怪我がカルダーラのキャリアを左右することになるのだが、実は、青年期にもキャリアを断念しかねない負傷に見舞われた。

「当時17歳で、膝のお皿を損傷してしまったんだ。まだ契約を結んでいなかったので、自分の夢が潰えてしまうのではないかと恐れた。だが、結果は違った」

 幸いにも、アタランタとは契約の運びとなる。2013年5月18日、20歳になったばかりのマッティーアは、13/14シーズンのセリエA最終節、カターニャFC戦でデビューを飾る。

 その後、FCトラーパニ、チェゼーナFCのセリエBのクラブでの2年間の武者修行を積み、一回り大きく成長し、16/17シーズンはアタランタに返り咲くこととなった。

 このシーズンから指揮を執ったのが、ジャン・ピエロ・ガスペリーニだ。チームは守備的な戦術を採っていたエドアルド・レーヤ体制から一転、攻撃的なスタイルへと大きく舵を切った。

 それは、数字の面でも明らかで、15/16シーズンと16/17シーズンは、失点数こそ41で並んだが、16/17シーズンは前シーズンを21も上回る62得点を記録。順位も13位から4位と大躍進し、26年ぶりとなる欧州カップ戦出場権を獲得した。

 クラブ史上最高位の4位でフィニッシュし、アタランタは、セリエA史上初めて、ミラノのクラブ、ミラン(6位)とインテル(7位)の両方を上回ってシーズンを終えた最初のロンバルディーア州のクラブとなった。

 この歴史的シーズンの原動力となったのがカルダーラだった。30試合に先発出場し、センターバックとしては圧巻の7ゴールを記録。ペナルティエリア内に入ると、ストライカーに変貌し、ゴールを量産した。

 アレハンドロ・ゴメスの16ゴール、アンドレア・コンティの8ゴールに次いで、チーム3位の7ゴールを挙げた。両足を遜色なく使いこなし、優れたフィジカルに加えて鋭い読みと高いタックル能力を備えていた。

 個人技にも秀でており、攻撃面でも貢献。まさに“パーフェクトディフェンダー”と呼ぶにふさわしい存在だった。

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