元イタリア代表で、将来を嘱望されていたDFマッティーア・カルダーラが今年、現役引退を決断した。キャリア晩年はケガの影響もあり、なかなか輝けず。かつての姿を取り戻すことないまま、スパイクを脱ぐ結果となった。そんなカルダーラが、壮絶なキャリアを振り返っている。大きな苦悩と、人生を変えた後悔とは。(文:佐藤徳和)[2/2ページ]
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「ユーヴェのような環境に残っていた方がよかった」
チームは16/17シーズンの第5節までを1勝4敗と厳しいスタートを強いられたが、この5試合でカルダーラが欠場していたことは少なからず影響を及ぼしたに違いない。
衝撃的な活躍が、ビッグクラブの心を揺さぶった。ユヴェントスが2017年1月12日、1500万ユーロ(約25.5億円)でカルダーラを獲得。2018年6月30日までアタランタにレンタルすることで、合意に達していた。
17/18シーズンもチームにとっては不可欠な選手であることは変わらなかったが、腰の負傷などにより欠場する機会も多く、リーグ戦は24試合の出場にとどまり、チームも7位に順位を下げた。
それでも、UEFAヨーロッパリーグ(EL)では8試合に出場し、欧州でも存在感を示した。そして2018年夏、ベルガモに別れを告げ、満を持してユーヴェの一員となる。
しかし、そこでは名門の壁が大きく立ちはだかった。
プレシーズンとはいえ、出場機会が多く得られないマッティーアは焦燥感に駆られる。アタランタでは常に試合に出ていたことに加え、すでに24歳とサッカー選手としては若くはない年齢とあって、焦りを感じ始めていた。
「マッティーア、耐えろ。ここに残れ」
ジョルジョ・キエッリーニが助言していたにもかかわらず、“心ここにあらず”という状況にあった。
そして、8月2日、1年前にユーヴェからミランに移籍していたレオナルド・ボヌッチとのトレードの形でミランへと完全移籍。ユーヴェの一員として、公式戦に一度もピッチに立たないまま、トリノの地を離れた。
カルダーラはこう振り返る。
「自分には出場機会が訪れないことがわかっていた。結局、ユーヴェには数週間しかいなかった。プレシーズンのトレーニングキャンプに参加しただけで終わってしまった。
ミランからの関心を知った時、その誘いを受け入れた。振り返れば、あのまま残っていればよかったと思う。ユーヴェのような環境に残っていた方がよかった。あのチャンピオンたちから学び、たとえ出場機会が少なくても、彼らと共に過ごしながら成長することができただろう。
自分には精神的な強さと成熟さが少し欠けていた。もしかしたら、自分のキャリアは全く違うものになっていたかもしれない。それは誰にもわからないけれど」
かくして、カルダーラは赤と黒の縦縞のユニフォームを身に纏うこととなった。しかし、今度は、怪我との壮絶な戦いが待ち受けていた。
「僕の人生の1ページが、そこで永遠に閉じられた」
「10月、いつものトレーニング。走っていたとき、突然、それまでに感じたことのないような感覚に襲われた。まるで誰かにアキレス腱を“撃たれた”ような感覚。誰かに足首を踏まれたのだと思った。
振り返ってみたが、そこには誰もいなかった。ベッドの上に横たわっているときの(パオロ・)マルディーニの顔を今でも覚えている。その表情に、深い悲しみが浮かんでいた。それを見て、すべてを悟った」
アキレス腱の部分断裂だった。それでもシーズン中には復帰の目処が立ち、4月24日開催のコッパ・イタリア準決勝、ラツィオとの第2戦で復帰した。
しかし、マッティーアに運命の女神は微笑まなかった。
「あのときの光景が、今でも目に焼きついている。(ファビオ・)ボリーニが僕の膝の上に倒れ込んできた。『バキッ』という音がした。
立ち上がって走り出そうとした。まさかまた怪我をしたとは思いたくなかった。だが足を地面につけた瞬間、崩れ落ちた。脚がまったく支えにならなかった。膝はズタズタだった」
アキレス腱部分断裂から復帰した矢先、今度は膝の十字靭帯断裂。心が完全に折れた。
「自分の中で、何かが変わってしまった。アキレス腱の怪我からは回復していた。でも、膝は違っていた。『もう以前の自分には戻れない』。僕の人生の1ページが、そこで永遠に閉じられた。
けれども、その時の僕はまだ気づいていなかった。その週、僕の人生は変わった。永遠に変わってしまった。その現実を受け入れる準備が、僕の心にはできていなかった。『マッティーア・カルダーラは終わった』」
2019年1月、レンタルの形でアタランタに復帰。1月20日のSPAL戦で再びピッチに立った。カルダーラはベルガモの地に戻ってきた。
しかし、16/17シーズンのあのセンセーショナルなプレーを披露したカルダーラは二度と戻らなかった。
カルダーラは今も、ミラン移籍について、後悔の念に苛まれている。
「過去に戻れるなら唯一変えたいことだ」
「過去に戻れるなら唯一変えたいことだ。それが僕にとって最大の後悔だ。怪我とそこから起きたすべてのことは自分のせいではない。でも、トリノに残らなかったという選択だけは、自分の責任だ」
古巣アタランタにももはやカルダーラの居場所はなかった。ヴェネツィアFC、スペツィア・カルチョで、必死にもがいたが、自身が思い描く、最高のカルダーラには出会えなかった。
23/24シーズン、ミランに戻ることとなったが、このシーズンのカルダーラを誰が覚えているだろうか。足首の手術を受け、出場したのは最終節のサレルニターナ戦だけだった。これがミランで唯一した出場したセリエAの試合だった。
2025年7月。カルダーラはある専門医のもとを訪れていた。
「初めて、妻と一緒に受けた診察だった。『君の足首にはもう軟骨が残っていない。続ければ数年後には人工関節を入れなければならなくなる』。心の中では、まだ医師の発言を受け入れられていなかった。
内転筋の問題からの回復途中だった。8月末まで、新しいシーズンに向けて準備しなければならないと思い、トレーニングしていた。どこかで、誰かから電話が来ることを願いながら。痛みを抱えながら、僕は走り続けていた」
さらに、「8月末、テストステロン注射を打った。『マッティーア、針が通らない。脛骨と足の間に、もうスペースがない。君が決めてくれ。
ただし、このまま続けるなら人工関節になる』と医師に言われた。そして、そのとき、腹を括り、決断した」と続けた。
引退発表まではそれから2カ月半の時間を要した。「決断した」と明かしながらマッティーアの胸の内には、まだ迷いがあったのかもしれない。
最後は、“決断”とも抗い、そして、断腸の思いで引退を決意した。思い描いたストーリーを実現することは叶わなかった。
しかし、あの輝きに満ちた16/17シーズンは、多くのファン、とりわけアタランティーニの記憶に深く刻まれている。
あの一年、マッティーア・カルダーラは紛れもなく、彼らにとって、世界最高のセンターバックであった。
(文:佐藤徳和)
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