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コラム 5時間前

消滅から奇跡の復活…かつてセリエAで暴れたキエーヴォに何が起きたのか。黄金期を築いた元会長が語る衝撃の事実と現在地【コラム】

シリーズ:コラム text by 佐藤徳和 photo by Getty Images

キエーヴォ・ヴェローナの元会長ルーカ・カンペデッリ
キエーヴォ・ヴェローナの元会長ルーカ・カンペデッリ【写真:Getty Images】



 かつてセリエAで旋風を巻き起こしたACキエーヴォ・ヴェローナは、コロナ禍の2021年に消滅。しかし、クラブのレジェンドであるセルジョ・ペッリッシエールの尽力もあり、奇跡の復活を果たした。当然ながら、そこには壮大なストーリーがある。黄金期を築いた元会長の言葉などから、キエーヴォに起きた事実をたどっていく。(文:佐藤徳和)[2/2ページ]
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「クラブを安全な状態にしておかなかったことが…」

「反論の機会が一切なかった。誰も被害者の側に立とうとせず、司法がより深く踏み込むように取り計らった者は誰もいなかった。諸機関は『ACキエーヴォがFIGCの規定を不服とする申し立てをしなかった』と言うだけだったが、コロナ禍において国が事実上、クラブを登録不能にする違憲な規定を作ったという事実を、誰も見ようとしなかった。

 コロナがなければ、クラブは今も存続していただろう。我々には経済的な問題はなく、選手の給与はすべて期限どおり支払っていた。

 2020年9月、すべての分割納付を停止する措置が出され、ACキエーヴォは7日間で抹消された。もう少し時間があれば、必ず存続の道は見つけられたはずだが、誰も耳を貸さず、手を差し伸べてくれなかった」

 2025年7月15日、フォルリーの裁判所は、チェゼーナ・カルチョの破産をめぐる裁判の一環として、カンペデッリを、2017年から18年の財務諸表に限定して有罪と認定し、チェゼーナ・カルチョとACキエーヴォ間の選手取引による架空の利益に関与した罪で懲役2年を言い渡した。



「フォルリー裁判所で、架空取引裁判で起訴され、会長職を停止された時点で、クラブを安全な状態にしておかなかったことが私の最も大きな過ちだった。

 税務署に行き、分割ではなく全額を支払わなければならなかった。移籍金上乗せについては無罪となっている。2年の有罪判決は粉飾決算についてであり、すでにこの件に関しては控訴している」

 表舞台に姿を現さなかったこの数年間、カンペデッリは一体何をしていたのだろうか。

「弁護士とのやりとりに追われ、フェンシングに打ち込んでいた。昨年までは障がいのある少年たちのチームにも関わり、トレーニングや試合に付き添っていた。最初はボッタジージォで練習していたが、クラブの破産後に競売にかけられ、エラス・ヴェローナが購入した」

 キエーヴォの北に位置するボッタジージォ・トレーニングセンターは、100年前に作られた堰橋ぐらいしか見どころのない集落において、象徴のようなところだった。そんな重要な施設を、あろうことかライバルのクラブに“乗っ取られて”しまったのだ。

「あれは卑劣だ。まるでミランがアッピアーノ・ジェンティーレ(インテルのトレーニングセンター)を買うようなものだ。私なら決してやらない」

実はドログバやカバーニの獲得に迫っていた!?

 しかし、2025年7月には、双方のクラブが合意に達し、ACキエーヴォがこのボッタジージォを“買い取りオプション付きの賃貸契約”という形で再び手元に取り戻した。自ら歴史あるトレーニングセンターを奪還することとなった。

 幼少期のダニエル・ラドクリフに似ていたことから、“ハリー・ポッター”と呼ばれていたこともあったカンペデッリは、大物選手の獲得に迫ったことも明かしている。

「2002年には、(ディディエ・)ドログバはすでにキエーヴォの選手だった。唯一の条件は、ルシアーノと(クリスティアン・)マンフレディーニの放出だったが、最後に破断となってしまった」と打ち明ける。

 フランスのル・マンFCでプレーしていた当時だ。実現していたら、彼のキャリアは、また違ったものになっていたはずだ。

 そして、もう一人がエディンソン・カバーニだった。「2006年には我々と一緒にトレーニングしていた。しかし、(ジョヴァンニ・)サルトーリと一部スタッフが、50万ユーロ(約9000万円)の価値はないと判断した」



 2006年は、ウルグアイのダヌービオFCでプレーしていた頃で、まだUSパレルモに移籍する前の話だ。強化スタッフの判断が異なっていたら、イタリアでのキャリアはACキエーヴォからスタートしていた可能性もある。鑑識眼に優れるサルトーリは、評価を見誤ったと言えるだろう。

 その後、カバーニの歩んだキャリアを見れば、それは一目瞭然だ。

 カンペデッリは、ACキエーヴォの黄金時代を築いたスポーツ・ディレクターのサルトーリについても語った。

 サルトーリは、25年にわたりACキエーヴォの発展に寄与してきた人物であり、その後はアタランタをイタリアの強豪クラブの一角に育て上げた。

 現在はボローニャFCの幹部職に携わり、ここでもその手腕が高く評価されている。彼が関わったクラブは、いずれも確かな成果を挙げてきた。

 だが、カンペデッリの評価は辛辣なものだった。

名前は昔と同じキエーヴォ。しかし、同じではない

「欧州屈指の五指に入る幹部だが、クラブを去って以降の振る舞いで、ACキエーヴォを本当に愛していなかったことがわかった。助けられたはずの時、彼はクラブの背後に隠れた」

 9部リーグから再び歩みを始めたクラブは、今ではセリエDまで昇格を果たし、今季は第15節を終えて、首位フォルゴーレ・カラテーゼと勝ち点差5の4位につけている。

 現在はかつて使用していたマルカントニオ・ベンテゴーディからおよそ300メートルの場所にあるアルド・オリヴィエーリを本拠地とする。収容能力は2,900人に過ぎない小規模のスタジアムだ。

 かつて慣れ親しんだスタジアムまでの距離は物理的には近いものの、セリエAまでの道のりはまだ道半ばだ。

 それでも、クラブが初めてセリエBに昇格した1994年に誕生した、最も古く、最大の組織的サポーターグループである『ノースサイド』を中心に少しずつ活気を取り戻している。

 クラブを救済したセルジョ・ペッリッシエールは、名誉会長とスポーツディレクターを兼任しながら、今もクラブの強化に尽力する。

 だが、カンペデッリは、今のACキエーヴォは、自らが構築したACキエーヴォとは別物だと強調する。



「多少の行き違いはあったとはいえ、セルジョとは喜んでコーヒーでも飲みに行くよ。そのあとのことはいろいろ考えないといけないが、もし連絡をくれたら嬉しい。ただ、新しいチームの名前はキエーヴォかもしれないが、私にとっては別ものだ。

 キエーヴォというのは、単なる商標ではない。私にとって、キエーヴォとは、一緒に戦ったカップ戦であり、私がデザインしたユニフォーム、そして一緒に働いていた人々のことを意味する。

 今のキエーヴォが、かつての私のキエーヴォと同じものだとは、思えない。あの頃は、純粋にサッカーを楽しむためのもので、それ以外に関心はなかった」

 現在のチームカラーは、イエローを基調としたものであり、エンブレムも14世紀のヴェローナの領主、カン・フランチェスコ・デッラ・スカラ(カングランデ1世)の騎馬像が描かれているものだ。

 そして、クラブ名もかつてのACキエーヴォの名称を取り戻した。カンペデッリが会長を務めた当時の姿と表面的には何も変わらない。

 しかし、多くの人々は、クラブを消滅に追い込んだのはカンペデッリであると、今もなお信じてやまない。もはや、彼がクラブの幹部として復帰することはないだろう。

 誰にも描くことのできないおとぎ話のような物語を残した、カンペデッリが築き上げた“あの”ACキエーヴォは、もう二度と戻ってこないのかもしれない。

(文:佐藤徳和)

【著者プロフィール:佐藤徳和】
1998年にローマでの語学留学中に、地元のアマチュアクラブ「ロムーレア」の練習に参加。帰国後、『ポケットプログレッシブ伊和・和伊辞典』(小学館)の制作に参加し、イタリア語学習書などの編集、校正、執筆に携わる。2007年から、フリーランスとして活動し、主にイタリア・サッカー記事のライティングに従事。2014年には、FC東京でイタリア人臨時GKコーチの通訳を務める。IL ROMANISTA、日本特派員。『使えるイタリア語単語3700』(ベレ出版)、『イタリア語基本の500単語』(語研)を共同執筆。日伊協会では、カルチョの記事を読む講座を開講中。X:@noricazuccuru

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【了】

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