元イタリア代表FWロレンツォ・インシーニェが、デルフィーノ・ペスカーラに復帰した。トロントFC時代からの大幅減俸を受け入れてまで、それも過去に1年しか在籍したことがないにもかかわらず、なぜ移籍を決めたのか。そこには、“マルコ”の存在があった。(文:佐藤徳和)[2/2ページ]
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ナポリとも交渉? 復帰が実現しなかった理由は?
代理人のアンドレア・ダミーコがその舞台裏をイタリア・メディア『ラディオ・キス・キス・ナポリ』のインタビューで明かした。
「ナポリから連絡があったのは10日ほど前のことだ。交渉は具体的に進みつつあった」と語るが、それ以上に交渉は続かなかったと説明した。
「おそらくUEFAチャンピオンズリーグ(欧州CL)敗退の影響があったのだと思う。残念ながら決定は別の方向へと向かってしまった。その時点で我々には他の選択肢もあったが、ロレンツォはペスカーラに戻ることを選んだ」
もう一つの古巣とは、もちろんSSCナポリである。今季は欧州CLに出場していたが、1月28日のリーグフェーズ第8節、チェルシー戦で2-3と敗れ、敗退が決まった。
ナポリ近郊フラッタマッジョーレで育ったインシーニェは、13歳の頃からSSCナポリでプレーした。Dペスカーラでプレーした1年も、SSCナポリからのレンタル移籍であった。
セリエAの優勝争いに絡み、SSCナポリに戻れば、自身初のセリエAタイトル獲得にも貢献できたはず。SSCナポリが一番の選択肢であったことは十分に頷ける。
一方で、Dペスカーラも古巣には違いないが、その在籍期間は“わずか”1年、しかもレンタルだった。それにもかかわらず、これほどまでに深い愛着が育まれたのはなぜか。あの“シーズン”に一体何があったのだろうか。
輝かしい“あの時代”の記憶
10/11シーズン、Dペスカーラは、セリエBで13位に終わった。前シーズンにレガ・プロ・プリーマ(3部リーグに相当)から昇格したばかりの1年であったから、それほど悲観する成績ではなかった。
2011年6月、クラブはチームをセリエBに導いたエウゼビオ・ディ・フランチェスコ監督との契約を解除。そして、超攻撃サッカーを標榜するズデネク・ゼマンが迎え入れられた。
ゼマンは、10/11シーズンのレガ・プロ・プリーマで、USフォッジャを指揮した。グループBで6位と凡庸な成績に終わったが、チェコ人監督が采配を振るチームは、この1年も凄まじい得点力を見せた。
34試合で67得点。優勝したASGノチェリーナの得点を15も上回る、“あり得ない”攻撃力を披露した。
そして、Dペスカーラにて、4シーズン目を迎えるヴェッラッティを中心に据え、4-3-3システムの超攻撃的サッカーを実現するためのチーム作りに着手。ユヴェントスでセリエAデビューを飾りながらも、まだポテンシャルを出し切れていなかったインモービレを獲得した。
10/11シーズンのUSフォッジャからは、インシーニェ(SSCナポリが保有権)をいずれもレンタルで引き抜いた。
11/12シーズンのセリエBは、セリエAで優勝経験のあるトリノFC、エラス・ヴェローナ、サンプドリアといった強豪がひしめく、“ミニ・セリエA”と言えるようなシーズンであった。
にもかかわらず、Dペスカーラは、トリデンテ(3トップ)が機能。主将で右サイドアタッカーのマルコ・サンソヴィーニ、センターフォワードのインモービレ、左サイドアタッカーのインシーニェが点を獲って、獲って、獲りまくった。
第24節を終わって首位に立つが、第35節以降は2位。最終節を残して、昇格を決めた。
最終節を2位で迎えたノチェリーナ戦に1-0で勝利。7連勝で締めくくると、それまで首位だったトリノFCがアルビノレッフェに0-0と引き分けたことで、イル・デルフィーノ(イルカの意、Dペスカーラの愛称)が、トリノFCと勝ち点で並んだ。
そのため、総得点で上回ったDペスカーラが最終節で逆転優勝を成し遂げることとなったのだ。
Dペスカーラは再び夢の中へ
特筆すべきはその得点力だ。1シーズンの90得点は、22チーム制の最多記録である。2位トリノFCと3位USサッスオーロが57得点、4位エラス・ヴェローナが60得点である。
カルチョ・スキャンダルにより、セリエB降格を余儀なくされたユヴェントスでさえも、06/07シーズンに記録した総得点は83だったのだから、いかにDペスカーラの得点力が常軌を逸したものかがわかるだろう。
インモービレは、ゼマン監督の期待に応えて28得点。インシーニェは18得点、サンソヴィーニも16得点を挙げ、3トップだけで、チームの総得点の3分の1の62得点をマーク。当然ながら、これだけの攻撃力を持つ一方で、守備には問題を抱えていた。
失点数は55で、2位トリノの28失点のほぼ倍に相当した。それでも、3点許したら、4点奪うという攻撃なスタイルは、多くのサッカーファンを虜にした。
当時20歳のインシーニェは、「この昇格は昨夏の時点では予想もしていなかったこと。本当に嬉しい」と小さな身体からいっぱいに抑えきれぬ喜びを爆発させた。
そして、去就については「自分としては残りたい気持ちもあるが、それは自分ひとりで決められることではない。(保有権を持つ)ナポリと(レンタル先の)ペスカーラが話し合うべき問題だ。でも、僕としてはセリエAでプレーしたいと思う」と本音を明かした。
スペクタクルなサッカーを見せたヴェッラッティ、インモービレ、インシーニェの“モスケッティエーリ(三銃士)”はこの当時20歳前後とまだ若く、大きな可能性を秘めていた。
3人は、Dペスカーラ昇格と優勝を置き土産に、それぞれ新たな挑戦を選んだ。そして、たった1年で、チームをドラスティックに改造し、奇跡のような大仕事をやってのけた指揮官ゼマンもまた、ペスカーラの街を去っていった。
Dペスカーラは後任にジョヴァンニ・ストロッパを迎え、19年ぶりとなるセリエAに挑んだが、夢のような時間は間もなく潰え、チームは最下位でシーズンを終える。
ゼマンの“魔法”は解け、守備だけでなく攻撃も崩壊し、失点だけでなく得点もリーグ最下位となり、凡庸以下のチームへと成り下がってしまった。
それでもペスカレージ(ペスカーラの人々)は、あの伝説の1年を「いつか再び」と、ずっと胸に思い続けてきた。
三銃士とチェコ人指揮官が再び揃うことはもうない。
けれども今、ヴェッラッティが株主の一人として、そしてインシーニェが選手として、このクラブに戻ってきたのだ。
ペスカーラの街はまた夢の中へと足を踏み入れたのかもしれない。
(文:佐藤徳和)
【著者プロフィール:佐藤徳和】
1998年にローマでの語学留学中に、地元のアマチュアクラブ「ロムーレア」の練習に参加。帰国後、『ポケットプログレッシブ伊和・和伊辞典』(小学館)の制作に参加し、イタリア語学習書などの編集、校正、執筆に携わる。2007年から、フリーランスとして活動し、主にイタリア・サッカー記事のライティングに従事。2014年には、FC東京でイタリア人臨時GKコーチの通訳を務める。IL ROMANISTA、日本特派員。『使えるイタリア語単語3700』(ベレ出版)、『イタリア語基本の500単語』(語研)を共同執筆。日伊協会では、カルチョの記事を読む講座を開講中。X:@noricazuccuru
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