数々のタイトルを獲得してきたイタリア代表には、常に世界最高峰の才能が集ってきた。その一方で、クラブレベルでは伝説的な実績を残しながらも、輝く機会に恵まれなかった名手たちも存在する。なぜ彼らは代表に定着できなかったのか。今回は10人の選手をピックアップして紹介する。[2/5ページ]
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FW:パオロ・ディ・カーニオ
生年月日:1968年7月9日
主な所属クラブ:ラツィオ、ウェストハム・ユナイテッド
イタリア代表通算成績:なし
ラツィオの下部組織が生み出した最高傑作の一人。緩急のあるドリブル、強力かつ正確なシュート、そしてリーダーとしての資質を備えたセカンドストライカーだった。
ローマ市東に位置するニュータウン、クアルティッチョーロの生まれで、プロ・テヴェレ・ローマでラツィオのスカウトの目に留まり、1984年に引き抜かれる。
この頃から、クルヴァ・ノルドゥ(ゴール裏)を支配していた「イッリドゥチービリ」のグループと結びつくほどの熱狂的なラツィアーレでもあった。
愛するラツィオでは、キャリア序盤の3シーズンと晩年の2シーズンに所属したものの、大きな足跡を残すことはできなかった。
しかし、イタリア国内では、ユヴェントスやミランといったビッグクラブにも所属。ミランでの95/96シーズンには5ゴールを記録し、スクデット獲得に貢献した。
在籍は2シーズンであったが、バンディエラであるフランコ・バレージが「もっと一緒にプレーしたかった選手」と語っていることからも、ディ・カーニオのクオリティーの高さを窺い知ることができるだろう。
初の海外挑戦となった96/97シーズンのセルティックでは12得点を挙げ、キャリア初の二桁得点を記録。続くシェフィールド・ウェンズデイで名声を高め、1998年12月に移籍したウェストハムでその名声を不動のものとした。
ローマ式敬礼を行うなど、ファシズムを称揚するような振る舞いを理由に、極右政治思想と結び付けられることもしばしばあった。シェフィールド時代には主審を突き飛ばしたことで11試合の出場停止処分を受けた一方、フェアプレー精神の持ち主としても知られる。
ウェストハム時代の2000年12月18日、エヴァートン戦では、攻撃の場面で相手選手の負傷に気づくと、クロスに対してボールを手で掴み、試合を止めた。この行為により、FIFAフェアプレー賞を受賞した。
プレミアリーグでは、2歳年上のジャンフランコ・ゾラの59ゴールを上回る66ゴールを記録し、イタリア人選手の最多得点記録を樹立。とりわけミドルレンジからの決定力が高く、ゴール前でも冷静で、ボレーシュートの名手でもあった。
1歳年上のロベルト・バッジョや同い年のジュゼッペ・シニョーリといった稀代のファンタジスタの陰に隠れ、アッズーリとはついに縁がなかったことは巡り合わせが悪かったとしかいえない。

