数々のタイトルを獲得してきたイタリア代表には、常に世界最高峰の才能が集ってきた。その一方で、クラブレベルでは伝説的な実績を残しながらも、輝く機会に恵まれなかった名手たちも存在する。なぜ彼らは代表に定着できなかったのか。今回は10人の選手をピックアップして紹介する。[3/5ページ]
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FW:ダリオ・ウブネル
生年月日:1967年4月28日
主な所属クラブ:ブレッシャ、ピアチェンツァ
イタリア代表通算成績:なし
奇しくも同い年のイーゴル・プロッティとともに、セリエA、セリエB、セリエC1の3カテゴリーすべてで得点王に輝いた数少ない選手の一人である。
得点王はそれぞれピアチェンツァ、チェゼーナ、ファーノで達成。また、少なくとも1試合に出場した9つの異なるカテゴリーすべてで得点を記録した唯一無二の存在でもある。
キャリア通算では355ゴールを挙げている。
生まれ故郷のフリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州ムッジャは、スロヴェニアに“食い込むような”位置にある町だ。
ドイツ系の血を引いており、それゆえ、Hübnerの苗字はイタリアの一般的なものではなく、イタリア人であっても発音に戸惑う姓である。
日本ではヒュブナーと表記されることが多いが、イタリア語に近いカタカナは「ウブネル」だ。
長い下積み生活ののち、セリエAの舞台に立ったのは30歳の時。セリエBで優勝し、昇格を遂げたブレッシャに、チェゼーナから移籍。トップリーグ1年目には16得点をマークするものの、チームは再び降格を強いられる。
それでもチームを離れず、2年間の“煉獄”で耐え忍び、2年連続で21得点を記録。その献身がセリエBの2年目に報われ、自らのゴールで最高峰の舞台へ押し上げた。
そして、2000年夏、やってきたのは、ロベルト・バッジョ。イタリアの至宝である。
さらに、冬の移籍市場では当時21歳のアンドレア・ピルロも加入。プロビンチャのチームが、イタリアのみならず世界から注目される存在となり、ウブネルの名も一躍有名となった。
しかし、ウブネルは退団の運びとなる。
その理由を、本人が自伝『私の名はタタンカ(アメリカバイソンの意)』で「戦術的にバッジョと私が両立することはなかった。彼はポストプレーヤーを欲し、私はディフェンスライン裏への抜け出しを得意としたからだ。そのため、クラブが私を放出することを決断した」と説明している。
斯くして、ウブネルの新天地は昇格組のピアチェンツァとなり、そしてこの地で、35歳にしてセリエA得点王の称号を得ることとなる(ダヴィド・トレゼゲと同点)。
そして2002年の夏、ミランのサマーツアーに招待されたが、契約とはならなかった。
本人はイタリア代表への熱い思いを前出の自伝で語っている。
「大きな後悔がある。イタリア代表のユニフォームを一度も着ることができなかったことだ。一度ぐらいは招集されるだけの資格は得たはずだ」と強い悔しさを滲ませている。
得点王に輝いた時の年齢を考えると招集は難しい判断であったかもしれない。
しかし、これだけのカンピオーネが一度もアッズーリのユニフォームに袖を通すことができなかったのは、惜しまれてならない。

