忘れがたいゴールの数々で人々を熱狂させたアレッサンドロ・フロレンツィが、現役生活に幕を下ろした。度重なる怪我やカピターノとしての重圧に悩みつつも、サッカーを純粋に愛する姿勢を貫き、胸のエンブレムのためにプレーした男は、なぜロマニスタからの批判さらされたのか。彼の栄光と苦悩の軌跡に迫る。(文:佐藤徳和)
現役生活に別れを告げたアレッサンドロ・フロレンツィ

【写真:Getty Images】
イタリアに、“A ogni morte di papa(ローマ教皇が亡くなるたびに)”という諺がある。これは「ごく稀にしか起こらないこと」を意味する言い回しだ。プリマヴェーラ(下部組織)からトップチームに引き抜かれることも、この諺のように極めて稀な出来事となってしまった。
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このような希少な“昇格”を成し遂げた一人にアレッサンドロ・フロレンツィがいる。ミランを最後のクラブとし、8月27日、現役生活に幕を下ろした。
フロレンツィは2010年、ASローマのプリマヴェーラから、プリマ・スクアドラ(トップチーム)に抜擢され、セリエBのFCクロトーネでの武者修行を経て、主力の一人として定着した。14ゴールを記録したカンピオナート・プリマヴェーラの11/12シーズン、グループCで優勝したローマは、ファイナルステージ決勝でヴァレーゼFCを3-2で破り、スクデットを獲得。
このステージで、決勝のトリプレッタの活躍を含めて3試合すべてでゴールを決め、チームを優勝に導いたのが、マッティーア・モンティーニだった。ローマからレガ・プロ・プリーマ(当時の3部リーグ)のベネヴェント・カルチョでプロデビューしたが、それからローマのユニフォームを再び身に纏うことはなかった。
10歳からローマ下部組織に所属し、U-20イタリア代表にも招集される逸材であっても、ルーマニアの名門FCディナモ・ブカレストやポーランドのヴィジェフ・ウッチといった東欧のトップリーグでプレーする機会は得たが、母国の最高峰リーグでスポットライトを浴びる夢は叶わなかった。