セリエA第15節、ミラン対サッスオーロの試合で、その若者は輝きを放った。ダヴィデ・バルテザーギである。DFでありながら2得点を記録し、ミラニスタを歓喜へと導いている。“マルディーニの再来”とも称される逸材は、本物なのか。ミラン加入から、トップチームで輝きを放つまでの歩みを振り返りつつ、彼の才能の可能性を見ていく。(文:佐藤徳和)[1/2ページ]
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マルディーニの再来と称される逸材
“マルディーニ2世”や“〇○のマルディーニ”といった呼び名で注目を浴びながらも、その後のキャリアで評価を裏付けることができず、いつの間にか表舞台から消えていった選手は少なくない。
29日に20歳の誕生日を迎えるミランのダヴィデ・バルテザーギは、イタリアにおける今最も旬の左サイドバックだ。ミラン下部組織出身で、父譲りのミラニスタである。
この若者も今、“マルディーニの再来”と称賛される一人だ。14日のサッスオーロ戦、34分に右サイドからのクロスに合わせてミランの一員としての初ゴールを決めた。
さらに、後半開始直後にもニアサイドをぶち抜き、2点目をマーク。サン・シーロの観衆を興奮のるつぼに叩き込んだ。
レジェンドのパオロ・マルディーニが1988年2月、19歳247日で挙げた初ゴールに対し、バルテザーギは19歳350日でネットを揺らした。さらに、ミランのDFとして史上最年少での2得点という記録にもなった。
試合はサッスオーロの粘りもあり2-2の引き分けに終わったが、この一戦は、“ミランの子”バルテザーギの記念すべき一戦として未来永劫語り継がれるかもしれない。
ただ、それは、これからの活躍に委ねられるのだが……。
バルテザーギの地元はお祭り騒ぎ
試合後、DAZNのインタビューに答えたダヴィデは、「2ゴールを決められて嬉しい。このチームと(マッシミリアーノ・)アッレグリ監督にはとても感謝している」と喜びを露わにした。
さらに、「最初のゴールの方がより難しかった。サイドからボールが来て、目の前にはたくさんの選手がいたが、信じて飛び込み、ファーサイドを狙った。そうしたら、ゴール前がすべて空いて、あとは押し込むだけだった」と1点目を振り返った。
引き分けに終わったことに悔しさを覗かせると、ベルナルド・コッラーディとフランチェスコ・マンニャネッリの二人のコーチと抱擁を交わしていたことについても触れた。
「自分のゴールが勝ち点3の獲得に役立たなかったのは残念だけれど、あの抱擁には意味があった。二人には本当に感謝している。とりわけ、代表でも僕の指導をしてくれたコッラーディには。
数日前に『いつになったら、俺のためにゴールを決めてくれるんだ?』って言われていた。そんなこともあって、抱き合ったんだ」
現役時代にACキエーヴォやSSラツィオなどで活躍したコッラーディは、アンダー世代のイタリア代表の指揮官を担い、U-19監督時代に、バルテザーギを招集。U-20の指揮官に昇格してからも、才能を高く評価していた。
今季からは、ミランのテクニカルスタッフに入り、コーチの一員として、指導を行っている。
ダヴィデの出生地はエルバである。ここで言うエルバは、ナポレオン・ボナパルトが最初の退位後に流されたことで知られるティレニア海のエルバ島(Elba)ではなく、ロンバルディーア州コモ県にあるコムーネ(自治体)のErbaだ。
もっとも、彼の本当の出身地は、近隣のアンノーネ・ディ・ブリアンツァである。コモとベルガモを東西に挟まれたアンノーネ湖のほとり、人口およそ2300人のこの小さな町には出産に対応できる病院がなく、隣接するエルバで生まれたにすぎない。
彼がサッスオーロ戦で2得点を挙げた日曜の午後、アンノーネ・ディ・ブリアンツァは歓喜に包まれた。まるで自分たちがサン・シーロでゴールを決めたかのように、若者たちは喜びを爆発させて、抱き合った。
その中には少年時代に、ダヴィデと一緒にボールを追いかけた者もいたことだろう。信号待ちではクラクションが鳴り響いた。大晦日のような光景だった。
ルーカ・マルジッリ町長は「ダヴィデは、その価値観と立ち居振る舞いにおいて模範的な存在。私たちの地域の誇りだ」と町の宝の活躍に目を細めた。
バルテザーギがミランの選手になった経緯
“ダデ”の愛称で親しまれるダヴィデは少年時代、部屋の壁にはマルセロやマルディーニのポスターを貼って彼らに近づくことを夢に抱き、町のオラトーリオ(教会付属の児童施設)で、サッカーを楽しんでいた。
このエピソードもオラトーリオ育ちのマルディーニを想起させるものだ。
オラトーリオが所有する体育館で、フットサルの大会に参加していた8歳の時だ。当時ミランの有力スカウトの一人で、現在はモンツァに所属するセルジョ・マレッリが、“ダデ”の才能を発掘した。
「まるで昨日のことのように覚えている。大会で、彼がすぐに目に留まった。ボールを受けて、サイドを一気に駆け上がり、驚くほど容易にクロスを上げていた」
「あの年齢で、あのような走りとストライドを持った少年を見たことは、数えるほどしかない」
マレッリは、すぐに、当時アッティヴィター・ディ・バーゼ(U-8からU-14までの年代が該当する基礎年代)の責任者だったマウロ・ビアンケッシ(現在はモンツァの育成部門テクニカルディレクター)に報告。それから、毎週のようにダヴィデのプレーをチェックすることになった。
実は、この頃、バルテザーギはアタランタとの“婚約者”のような存在だった。
しかし、ビアンケッシは、ミランへの加入を推し進める。
「ダヴィデの存在を知らされて、絶対に見るよう懇願された。すぐに衝撃を受けた。ご両親に話をして、『私たちを信じてください』と伝えた。そして、(元ミラン代表取締役、アドリアーノ・)ガッリアーニには『この子は、将来のミランで、レギュラーの左サイドバックになり得る』と話した」と明かしている。
そして、ダヴィデが、初めてロッソネーリのトレーニングに参加した日、下部組織の監督だったフィリッポ・インザーギや息子のダニエルを見に来ていたマルディーニも姿を現した。
スタッフはすぐにダヴィデの資質を見抜き、本人も迷わずミランのユニフォームを選んだという。
