数々のタイトルを獲得してきたイタリア代表には、常に世界最高峰の才能が集ってきた。その一方で、クラブレベルでは伝説的な実績を残しながらも、輝く機会に恵まれなかった名手たちも存在する。なぜ彼らは代表に定着できなかったのか。今回は10人の選手をピックアップして紹介する。[1/5ページ]
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FW:ヴィンチェンツォ・モンテッラ
生年月日:1974年6月18日
主な所属クラブ:ローマ、サンプドリア
イタリア代表通算成績:20試合3ゴール
ナポリの北東、約15キロに位置するカステッロ・ディ・チステルナで育つ。兄の影響でサッカーを始め、少年時代のアイドルは、町そのものを熱狂の渦に巻き込んだディエゴ・マラドーナではなく、ミランのマルコ・ファン・バステンであった。
本格的にサッカーに取り組み始めた幼少期、初めて袖を通したユニフォームの背番号は「1」。そう、GKである。
「一生GKをやりたかった」と後に語るほど、このポジションに愛着を感じていたが、長身ではなかったことから、やがてFWを任されることとなる。
プロキャリアのスタートは1990年、当時セリエC1だったエンポリ。順調に成長を遂げる中で、4年目のシーズンは腓骨骨折などに見舞われ、試合に出場できなかったが、5年目に初の二桁得点となる17ゴールをマークし、翌年はセリエBのジェノアに移籍。
ここで、“アエロプラニーノ(小さな飛行機)”のパフォーマンスを生み出し、セリエA初挑戦の1年目で22得点の活躍を挙げた。
そして、1996年夏、ジェノヴァのもう一つのクラブ、サンプドリアへと引き抜かれ、8月28日に公式戦デビューを果たす。その一戦は、コッパ・イタリアでのジェノア戦。2ゴールを叩き込む、衝撃的なお披露目だった。
1999年夏にはローマに移籍。2年目の00/01シーズンには、ガブリエル・バティストゥータが加入することで、控えに回ることとなったが、途中出場が多い中で13ゴールをマーク。ローマの18年ぶりのリーグ制覇に少なからず尽力した。
2000年1月からローマに所属した中田英寿曰く「チームで最もシュートが上手い」と唸らせるほどの高い技術力を持っていた。
アッズーリには、25歳の誕生日を迎える直前の1999年6月、ディーノ・ゾフ監督によって初招集を受ける。
EURO2000では、2試合に出場したが、ゴールはなく、初ゴールは2001年4月25日の南アフリカとのテストマッチまで待たなければならなかった。実に10試合目の得点であった。
その後、ジョヴァンニ・トラパットーニ監督により2002年FIFAワールドカップのメンバーに選出され、メキシコ戦で後半から途中出場。さらにマルチェッロ・リッピからも2試合に招集されたが、いずれも出場はなくベンチにとどまった。
セリエA歴代31位の通算141得点を考えると、代表での3ゴールはあまりにもさみしい数字だと言わざるを得ないだろう。
現役引退後は指導者の道を歩み、現在はトルコ代表を指揮。2026年大会出場に向けて3月のプレーオフを控え、3位になった2002年大会以来の出場権獲得を目指す。

