日本ではあまり馴染みがないが、ヴィルトゥス・ヴェローナというイタリア3部クラブが話題を呼んだ。その理由は、ルイージ・フレスコ監督の退任。なんと彼は、44年にも渡り、このクラブを率いてきたのである。そうした背景から“イタリアのファーガソン”とも呼ばれているが、なぜここまでの長期政権を築くことができたのか。そして、フレスコとはどんな人物なのか。(文:佐藤徳和)[1/2ページ]
エラスでもキエーヴォでもない…話題はヴィルトゥス
“イタリアのファーガソン”の異名を持つルイージ・フレスコが44年にわたり指揮を執ったクラブは、シェイクスピアの名作『ロミオとジュリエット』(イタリア語ではロメオとジュリエッタ)の舞台として知られる「カーザ・ディ・ジュリエッタ(ジュリエットの家)」から東に約3.5キロの場所にトレーニング場を構えている。
ヴェローナ・スポーツ界における2人の著名な人物、マリオ・ガヴァニン(1912-1961)とシニバルド・ノチーニ(1922-2003)の功績を祝い、1970年に建てられた施設で、2人の名をその名称に冠している。
前者はヴェローナ市の元スポーツ担当評議員であり、ポリスポルティーヴァ・リベルタス・モントーリオの創設者であった。一方、後者はスポーツ医学の医師で、1961年から20年間にわたりヴィルトゥス・ヴェローナの会長を務めた人物である。
この施設は決して近代的な設備とは言えないが、サッカーグラウンドに加え、この地で盛んなラグビーのグラウンド、さらには野球場や陸上トラックも備えた複合施設となっている。ヴェローナ市中心部から車で約10分という利便性の良さも特徴だ。
また、この施設にはヴィルトゥス・ヴェローナの本拠地スタジアムも併設されている。最大収容人数は1,500人と決して大きくはないが、それでも毎試合、熱心なファンが足を運び、この小さなスタンドを情熱で満たしている。
ヴェネト州西部の都市ヴェローナのサッカークラブといえば、誰もが84/85シーズンに望外のセリエA制覇を果たしたエラス・ヴェローナ、あるいは2000年代に入って目覚ましい躍進を遂げたキエーヴォ・ヴェローナを思い浮かべるはずだ。
いずれもヴェローナ市の紋章と同じジャッロブルー(黄色と青)を基調としたクラブカラーを持つクラブである。
しかし、3月5日、イタリアで最も話題となったのは、エラスでもキエーヴォでもなく、ロッソブルー(赤と青)をシンボルカラーとするヴィルトゥス・ヴェローナであった。
なぜヴィルトゥス・ヴェローナに注目が?
ヴィルトゥスは、エラスより18年遅く、キエーヴォより7年早い1921年に創立されたクラブである。「フーバル(ヴェネト州の言葉でサッカーの意)」を愛する地元の人々によって、突如として誕生した。
キエーヴォの方がヴィルトゥスよりも早くプロリーグ入りし、長く脚光を浴びてきたことから、ヴィルトゥスはヴェローナ“第3のクラブ”という立ち位置に置かれてきた。
しかし、キエーヴォが現在セミプロであるセリエDでの戦いを強いられている今、ヴィルトゥスがヴェローナ“第2のクラブ”と呼ばれても不思議ではない。
25/26シーズンは、元日本代表FWの森本貴幸が所属したノヴァーラFCやインテルのセカンドチームが所属するセリエCグループCで、18位に位置するチームが、なぜ脚光を浴びたのか?
実は、ヴィルトゥス・ヴェローナは、昨年6月にも、サッカー界で関心を集めたことがあった。
ミランで神童と騒がれ、モロッコ代表最年少出場記録を持つ27歳、ハキム・マストゥールを祖国の最上位リーグに所属するウニオン・トゥアルガから獲得したためだ。
今回、注目を集めた理由は、64歳のフレスコ監督が、辞任を表明したことにあるが、そのフレスコは、44年間もヴィルトゥス・ヴェローナで監督を務めていたのだ。
1982年から指揮を執ったが、それ以前も、下部組織の監督などを担い、1973年からこのヴィルトゥス・ヴェローナ一筋で尽力してきた人物だ。
1982年の春、下部組織の責任者だったフレスコは、わずか21歳で、指揮官に抜擢され、さらには同時に、クラブの会長にも就いている。いわば、“二刀流”だ。
これはイタリアサッカーのいかなるカテゴリーやレベルにおいても極めて特異な存在であり、それゆえ、1986年から27年間、マンチェスター・ユナイテッドを指揮したアレックス・ファーガソンにちなみ、“イタリアのファーガソン”の愛称で親しまれている。
イタリアでは稀な長期政権を実現できたわけ
解任や辞任が絶えないイタリアのリーグにおいて、40年以上にわたり一つのチームを指揮し続けることは、まさに類を見ない偉業である。
今季のセリエAでも、開幕時に指揮を執った監督がシーズン途中で解任されたケースはすでに7チームに上る。
かつてパレルモの会長を務めたマウリツィオ・ザンパリーニは、15/16シーズンだけで実に7度も監督を挿げ替えたことでも知られる。もはや1シーズンを通してベンチを守ることさえ、至難の業である。
一方、近年の長期政権を築いた指揮官として真っ先に思い浮かぶのはジャン・ピエロ・ガスペリーニである。
アタランタで長期体制を築いたものの、それでも9シーズンにとどまる。イタリア国外に目を向ければ、スペインのアトレティコ・マドリーを率いるディエゴ・シメオネの名が挙がるが、こちらもようやく15年目に突入したところだ。
フレスコがトップチームの監督に就いた1982年は、イタリア・サッカー連盟(FIGC)の最下層にあたるテルツァ・カテゴリーア(当時の9部リーグ)にあったチームをいきなり昇格に導き、そして、ゆっくりと着実に、昇格を繰り返し、通算7回もチームを上位カテゴリーに押し上げてきたのだ。
05/06シーズンにはセリエDへ、12/13シーズンには、レーガ・プロ・セコンダ(当時の4部リーグ)に導いた。初のプロリーグ参戦は、1年で降格となり苦渋をなめたが、17/18シーズンにセリエC昇格。再びプロリーグに返り咲いた。
18/19シーズンは、降格プレーアウトの末にセリエD降格となるが、多くのクラブが破産となったため、幸運にも降格を回避。それ以降、セリエCの舞台にとどまっている。
2025年3月には、イタリア監督協会(AIAC)から、長期間に及ぶ指揮が称えられ「AIAC特別賞」が授与されている。
フレスコは、「ここで、監督を担う仲間に、43年間同じチームを続けて率いる秘訣を明かそう。それは、会長と監督を同時に務めることだ」とコメントし、笑いも誘った。
会長であれば、専制的に自らの権力を振りかざし、自身を監督の座に留め続けることも可能である。
だが、“指揮官フレスコ”は就任直後から優れた成績を残してきた。“会長フレスコ”が“指揮官フレスコ”を重用してきたのは、理にかなったことである。
しかし、セリエC 8年目の25/26シーズンは、開幕から苦戦が続き、3月3日にノヴァーラFCに0-1と敗れ、“会長フレスコ”は、“監督フレスコ”の退任を決意した。
ヴェローナ生まれのフレスコは、『ラ・ガッゼッタ・デッロ・スポルト』のインタビューに答え、辞任の理由を明かしている。
