1980年代後半から2000年代前半にかけて黄金期を築いたイタリア・セリエA。中田英寿や中村俊輔といったレジェンドも同舞台で輝くなど、日本人に馴染みの深いクラブが多かった。しかし、そこから深刻な財政難を理由に、現在はかつてのような存在感を失ってしまったクラブも目立つ。今回は、そのようなクラブをピックアップ。輝かしい歴史と、あまり知られていない“今”を伝える。第1回はレッジーナ。(文:佐藤徳和)[1/2ページ]
かつて中村俊輔も在籍したレッジーナの転機
かつて日本の多くのファンを熱狂させた中田英寿が所属したACペルージャや森本貴幸のカターニャFCは、トップリーグでの戦いから離れ、下部リーグでの戦いを強いられている。
柳沢敦と小笠原満男の鹿島アントラーズ・コンビが入れ替わるように在籍したACRメッシーナも、今やセリエDに身を置いている。
そのACRメッシーナの本拠地である同名の町からメッシーナ海峡を挟んだ対岸、レッジョ・ディ・カラーブリアにも、日本人を熱狂の渦に巻き込んだクラブがある。
中村俊輔が02/03シーズンからの3年間にわたり所属したレッジーナだ。
今はセリエDを主戦場とし、ACRメッシーナと同じグループIに属している。
レッジーナの転機が訪れたのは、パスクアーレ・フォーティが、会長に就任した1991年。アマラント(深紅色)のクラブは右肩上がりの成長を遂げていった。
フォーティは、お飾りのような会長でなければ、理不尽にチームの強化に関して口を挟む会長ではなかった。
1950年、レッジョ・ディ・カラーブリア中心街のリオーネ・フェッロヴィエーリに生を受け、父親の服飾業の経営を継ぎ、『Foti Boutique』といった複数の店舗を展開している。
そして、1986年から代表取締役としてクラブの経営に携わっていた。
それゆえ、サッカーに関しても、“美”を追求する会長であった。
衝撃のピルロ加入。そしてバッジョも…
1999年、セリエBの3位でクラブ史上初のセリエA昇格を勝ち取る。するとその夏、やってきたのは20歳になったばかりのアンドレア・ピルロであった。
フォーティ会長は、ピルロの代理人トゥッリオ・ティンティをよく知っていた。ミラノでティンティと会い、交渉は予想よりも簡単にまとまった。
「アンドレア・ピルロがレッジーナとサインした」
静まり返った空に走る稲妻のような、移籍劇だった。
6ゴールの活躍、そのうち3ゴールは、ピルロの代名詞であるFKからの得点だったが、レッジーナでの初得点は、ピルロにとっては珍しい、ヘディングによるものだった。
期間限定で加入したピルロの貢献もあって、フランコ・コロンバが指揮したチームは、11位という予想以上の好成績で、セリエA初挑戦を終える。
レンタル期間満了によりピルロが退団したチームは、20世紀最後の年の夏、もう一人のファンタジスタ――いや、イタリア史上最高のファンタジスタと言わなければならないだろう――ロベルト・バッジョの獲得に動いていた。
稀代のジョカトーレとセリエA 2年目を迎えていたクラブとの交渉は、あまりにも力量の差が大きく、誰の目にも実現不可能な“恋物語”のように映った。
だが、バッジョの自宅を訪ねたフォーティ会長の熱烈な説得などにより、バッジョの心は次第に移籍へと傾いていく。
移籍交渉は一転し、レッジーナがバッジョを獲得するのではないかと見られるまでに至った。
バッジョの獲得が夢に終わった理由
しかし、その時、ブレッシャが介入。バッジョは当時33歳。家族とより長く時間を過ごせる生活を望んでいた。
ブレッシャからバッジョの故郷ヴィチェンツァ県カルドーニョまでは車で約90分。イタリア半島の“つま先”に位置するレッジョ・ディ・カラーブリアと比べれば、はるかに近かった。
さらに、ファンタジスタの起用を心得るカルロ・マッツォーネ監督の存在も決定打となり、バッジョはブレッシャへの移籍を承諾することとなった。
フォーティは、当時の交渉を『ラ・ガッゼッタ・デッロ・スポルト』のインタビューで回想している。
「彼を訪ねてカルドーニョへ行った。ロビーは非常に親切だった。私は1時間半かけて彼を説得しようと試みた。試合の翌日は自宅、カルドーニョで過ごしていいという条件まで提示した。
しかし、実現しなかった。その後、ブレッシャが現れた。ブレッシャは、レッジョ・カラーブリアよりもヴィチェンツァにはるかに近かった」
ピルロが去り、バッジョ獲得の夢も霧散したレッジーナは、2000/01シーズンを15位で終え、14位ヴェローナとの残留プレーオフにも敗れて降格となった。
それでも翌シーズン、セリエBで3位に入り、1年でセリエA復帰を果たす。
そして迎えた2002年夏のカルチョ・メルカート。フォーティは“東洋のファンタジスタ”の獲得に動いた。中村俊輔である。
