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【サッカー狂・佐山一郎の嘆き】サッカーメディアの質が、平均点止まりになる理由

text by 佐山一郎

全柔連を笑えないサッカー界の現実

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佐山氏が編集長を務めていた『STUDIO VOICE』で行ったラモス瑠偉のインタビュー。「サッカー選手への初の取材で、このとき「瑠偉」の日本名を奨めました」(本人談)

 イナーシア(惰性)や閉塞感の遠因ははっきりしています。編集者も取材記者もで両方やってる場合が多くて、本を読む暇がないんです。或いはもう、発信者としてサッカーにかかわりたい人たちが出揃ってしまった挙げ句のムラ社会なのか…。

 問題は、過度のマーケティングにあるんじゃないですか。野球の言葉でいえば、球置きに行って打たれている。サッカーの場合だと狙いすぎたシュートがポストやバーに当たって相手のカウンターを招くみたいな話です。購買層マーケティング的結論は、“入学”平均年齢が17歳で“卒業”平均年齢は25歳。たまに買うのは日本代表が凱歌をあげたときで、近頃ゾッコンの○○選手が表紙の時だけ──みたいなことを知りすぎてしまった誌面作りというのもちょっとね(笑)。

 そんな調子で編集をし続けると、排除の論理が姿を現します。もともと購買力の失せている少数派の中高年コア・ファンには、コクがなさ過ぎるんです。

 それでもまだ「役割を終えたのか!?」──という風な議題設定じゃなかっただけマシです。後発の媒体側からすれば、老舗は協会との付き合いの長さ含めて内輪でやってる感じがするのだろうし、老舗側からすれば、硬い肉を食べて来た過去の労苦も知らないで、となる。協会やJリーグはどうしても部数が少なく安定感もない新興勢力や無名のフリーランスには冷たく対応してしまうんじゃないですか。身内・仲間内意識は一種の文化方言みたいなもので楽なんです。

 それで御用達のような出入りの業者メディアと赤の他人メディアとは少し違うとばかりに対応面での差をつけてしまう。前者は信用のある「鬼」のいない「世間」で、後者は冷たい「社会」や「鬼」そのもの。ヌッと真正面に現れるよそ者に見えてしまう。この『サッカー批評』なんかは、かれこれもう15年も続けているのに、いまだ後者扱いなんじゃないですか。構成員に特段の問題はないと思うんですけどね。構成員という言い方もちょっと変か…(笑)。

 トルシエ時代の日本平だったかな。監督、コーチになった早稲田大学のOB連とスタンドに坐っていたら、ほぼテレビタレント化している某元日本代表選手が、わざと聞こえるくらいの音量で「ちえっ、結局、ワセダじゃないと協会の主流になれねえんだよな」みたいなことを視線だけは合わさずにおほざきになった(笑)。そしたら、編集関係の年上の知り合いが「今からだって遅くない、お前ならコネで入れるだろう」と言い返して、なんだかもう、あたりは予期せぬ失笑と苦笑いの渦(笑)。

 たしかに視えない制度はあるし、序列性だって残存している。そういう問題意識を彼が持っているのであれば、主戦場がバラエティ番組という風にはならないと思うんですけどね。

 世間的な価値に負けている人が多過ぎますよ。タブーは減るにこしたことはないし、小さかろうが大きかろうが増大させる動きには抵抗の意志を示さなくちゃ。民主主義の別名は「恩知らずシステム」。全柔連を笑えない現実はサッカー界にもあるんです。

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