サッカーはいかにして巨大ビジネスになったか。元電通専務・高橋治之が知る真実

9月7日発売の『フットボール批評issue07』(カンゼン)の連載企画「ブラッターに最も近い日本人」(文◎田崎健太)では、“スポーツビジネスの巨人”元電通専務・高橋治之氏の足跡をたどりながら、怪物が蠢くサッカービジネスの光と影をあぶり出している。一部を抜粋して紹介する。

2015年09月25日(Fri)10時47分配信

text by 田崎健太 photo Shinya Tanaka
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サッカーはビジネスにならないと考えられていた時代

 後輩たちのために気心の知れた仲間たちと手弁当で動く――こうした善意の人たちがスポーツの組織の黎明期には必ず存在したはずだ。本業の時間を割いて、あるいは会社の備品などを利用して、という良い意味での“公私混同”が競技を支えてきた。

 組織に金が流れ込むようになると、その牧歌的な空気は、淀んだどす黒いものに変わっていく――その極端な例が今回のFIFA問題の1つの側面だと考えている。

 かつてジョアン・アベランジェからこんな話を聞いたことがある。

「あるアフリカの国はFIFA総会に出席する航空チケットさえも買えなかった」

 そうした貧しい国の協会の代表はアベランジェが差し出した航空チケットを喜んで受け取り、会長選では彼に投票したことであろう。サッカービジネスが大きくなるにつれて、「航空チケット」の額は当然膨れあがっていったというわけだ。

 前回の連載では、電通の高橋治之がサッカーはビジネスにならないと考えられていた時代、77年に「ペレ・サヨナラ・ゲーム・イン・ジャパン」、79年に「ワールドユース」を成功させたことを書いた。

 この79年は、ワールドカップと並ぶもう1つの大きなスポーツイベント、オリンピックも変わりつつある時期であった。電通、そして高橋はそこに足を踏み入れることになった。そう、スポーツに金が急速に流れ込み始めたのだ――。

 60年代から70年代の日本でサッカーに携わっていたのは、この競技のことが好きでたまらない人間ばかりだった。熱心な人間は限られており、多くが顔見知りで、何らかの形で繋がっていたものだ。現・FIFA会長のゼップ・ブラッターはその緩やかな空気が流れていた時代から日本サッカーと関わっていた。当時、ブラッターと親しく付き合っていた1人が中野登美雄だ。

 中野は1940年に東京で生まれ、中学校からサッカーを始めた。初めて日本代表の試合を観たのは、56年6月に後楽園競輪場で行われたメルボルン5輪の予選だった。3日に行われた第1試合で日本は韓国代表相手に2対0で勝利。ところが10日の第2試合で0対2で敗戦し、抽選でオリンピック出場権を手にした。

サッカーはいかにして巨大ビジネスになったか。元電通専務・高橋治之が知る真実
日本におけるスポーツビジネスを変えた男と言われる元電通専務の高橋治之【写真:Shinya Tanaka】

 武蔵大学卒業後は北海道硫黄株式会社という鉱業の企業に入ったが、サッカーから離れることはできなかった。

「初任給が2万7500円で、忘れもしないアディダスのワールドカップ(というブランドのサッカーシューズ)を1万5000円で買ったんです。初任給というのは親にお礼するもんだと父親にぶん殴られましたよ」

 中野は50年以上前のことを思い出し、大笑いした。

 中野がサッカーシューズを買った飯田橋のスポーツ用品店――『ヤンガースポーツ』は、日本リーグのチームへユニフォームを卸していた。

 あるとき、店主から日本代表が土のグラウンドで練習したがっていると相談を受けた。そこで中野は母校である武蔵大学を紹介することにした。

「それで平木(隆三)さんと仲良くなった。今じゃ信じられないでしょうけど、当時の日本リーグというのは選手が運営していたんですよ。それじゃ(選手が)可哀想だということで、運営グループを作った。ぼくは駒沢と国立(競技場)の運営を手伝うようになった」

 メルボルン五輪に出場した平木は古河電工監督、68年のメキシコ五輪サッカー代表のコーチを務めていた。中野は平木たちから請われて、69年4月にサッカー協会の職員となった。

 この年の7月、FIFA主催の第1回コーチングスクールが開催されている。このスクールを仕切ったのが、日本サッカーの父とも言える、ドイツ人のデットマール・クラマーである。

 このスクールはアジア各国からコーチを集めて講義と実技を教え、試験に合格した人間にライセンスを与えるというものだった。協会に入ったばかりの中野はこの運営に忙殺されることになった。

 コーチングスクールの修了式には、当時のFIFA会長だったスタンリー・ラウスも出席した。このコーチングスクールはラウスの肝いりで始めたものだった。

「なぜかラウスとは仲良くなってね。俺とお前はFIFAだって言われた。つまりフェデレーション・インターナショナル・ファットマン・アソシエーション。昔は若かったのにお腹が出ていてね」

 中野はお腹を指さした。

 元審判のスタンリー・ラウスはイングランドのサッカー協会の事務局長を27年務め、61年にFIFA会長となっていた。48年ロンドン五輪での功績を認められて、爵位を受けている。

 そのラウスとFIFA会長選挙で争うことになったアベランジェが選挙活動で日本にやってきたことを中野はかすかに覚えている。

「(サッカー協会の入っていた)岸記念体育館の1階にスポーツマンクラブってあるでしょ? アベランジェがあそこに来て話した。自分をサポートして欲しいと言っていたような気がする」

 とはいえ、この元水球選手のブラジル人が人望のあるラウスに勝つとは思っていなかった。ブラジルはすでにサッカー王国としての地位を確保していたが、それはピッチの中でのことで、FIFAは欧州のものだという認識だった。そのため、74年のワールドカップ前のFIFA総会でアベランジェが会長になったと知ったとき、中野はひどく驚いた。

 76年、中野はサッカー協会の事務局長に就任、事務方の代表としてFIFAに関わるようになる……(続きは『フットボール批評07』でお楽しみください)

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