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セリエA 8か月前

戦火を逃れた少年がナポリのアイドルに。クワラツヘリアの壮絶な少年時代【現地発コラム前編】

text by 弓削高志 photo by Getty Images

戦火に包まれた国で開花したフットボールの才能



 15年前の夏、人口450万に満たない黒海の小国ジョージアは戦火に包まれた。南オセチア戦争と呼ばれるロシアとの領土紛争が起こり、大規模な戦闘が当時7歳だったクヴィチャ少年と家族が暮らす首都トビリシ近くの町にまで迫った。

 国内の名選手だった父バドリに従い、ボールを蹴り始めていたクワラツヘリアは、領土を失ったジョージアの敗戦を伝えるTVニュースと身体を震わす爆音を聞きながら、幼心にサッカーこそ平穏な人生を得るための最良の道だと信じ、日々の練習をより真剣に取り組むようになった。

「おいおい、あの小僧、一体どこから湧いてきたんだ?」

 両親以外でクワラツヘリアの才能を最初に見出したのは、ディナモ・トリビシのチーフスカウト、テムル・ウグレケリゼとされている。ナポリの新アイドルのルーツを探るイタリア紙のインタビュー取材に胸を張った。

「何人か評価したい子供がいて、試合を見に行ったんだ。キックオフから10分もしないうちに、ある少年がボールを持ったと思ったらドリブルを始めて相手全員を抜いたんだ。一度も止まらずにだよ。あらためて注目してみたら、当時11歳だったクワラツヘリアはボランチやDFに『ボールを後ろに下げるな!』と大声で怒っていた。その歳でそこまで自己主張できる子はいない。彼の虜になったよ。すぐに父親を探し出して、うちのクラブに来てもらうよう口説いた」

 ディナモ・トリビシは、ディナモ・キエフ(ウクライナ)と並び、旧ソビエト連邦時代にロシア勢以外の強豪として一目置かれていたクラブだ。

 81年にはUEFAカップ・ウィナーズ・カップで優勝している。当時、10番を背負い優勝の原動力となったMFダヴィド・キピアニは引退後指導者になったが、母国の代表監督だった01年秋、心臓発作により49歳の若さで不慮の死を遂げた。同じ年に生を受けたクワラツヘリアこそ名手キピアニの生まれ変わりだとジョージアの国民は信じて疑わない。

(文:弓削高志【イタリア】)

【了】

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