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コラム 4か月前

イタリアで立て続けに起きる悲劇。SPALがついに“消滅”へ。セリエA経験もあるクラブが、地獄へと落ちた原因は【コラム】

シリーズ:コラム text by 佐藤徳和 photo by Getty Images

SPALの誕生と功績

 SPALの母体は1907年、市内にあるオラトーリオ(教会に隣接する青少年の集会施設)の館長を務めていたサレジオ修道会のピエトロ・アチェルビス司祭の発案によって誕生した。

 司祭は『アルス・エト・ラボール』という名の宗教・文化サークルを設立し、数年を経て、新たな館長のもとで『チルコロ・アルス・エト・ラボール』となり、芸術活動に加えて、陸上や自転車競技といったスポーツ活動も行われるようになった。

 採用されたクラブカラーは白と水色。これはサレジオ修道会の紋章の色でもあるのだ。

 サッカー部門は1912年に設立され、スポーツ部門がオラトーリオから独立。『ソチェター・ポリスポルティーヴァ・アルス・エト・ラボール』の名が冠された。

 当初、サッカー部門は『アッソチャツィオーネ・カルチョ・クラブ』という名称で知られていたが、第一次世界大戦の終結後、1919年になってサッカー部門も総合クラブと同じ名称、『SPAL』を名乗るようになった。現在の名称で初めて公式戦を戦ったのは、1919年6月16日のトリエスティーナ戦である。

 SPALが、トップリーグに参戦した数は、創設以来、24回。プロヴィンチャのクラブとしては、胸を張れる数字だ。プリマ・カテゴリーアからプリマ・ディヴィジョーネの移行時にかけて、1920/21シーズンから5回、名を連ねた。

 そして、29/30シーズンに1リーグ制となり、セリエAの名称がついたトップリーグでは、51/52シーズンに初参戦の機会を得た。59/60シーズンの5位。これがSPALにとってのリーグ最高位である。

 さらに、61/62シーズンには、コッパ・イタリアで準優勝の成績を残した。準決勝ではユヴェントスを4-1で撃破。ローマのオリンピコで開催された決勝は、このシーズンにセリエBで戦っていたナポリに1-2と敗れ、あと一歩のところで偉業を逃している。

 この時代の会長が、パオロ・マッツァだった。

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