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J1 1か月前

能力に疑問…。Jリーグ、あっけなくクビになった日本の大物監督5人。期待ハズレだったのは?

「名選手、名監督にあらず」という言葉があるように、サッカー選手として優れていたからといって、優れた指導者になるとは限らない。愛する古巣を崩壊させてしまう、そんなケースもしばしばだ。今回は監督としては大きな成功を収められなかった日本代表クラスの元選手たちを紹介する。[3/5ページ]
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信藤健仁(元日本代表DF)

信藤健仁(元日本代表DF)
【写真:Getty Images】

生年月日:1960年9月15日
主な監督歴:横浜FC(2001-2002)

 元日本代表DF信藤健仁は、マツダSC(サンフレッチェ広島の前身)で天皇杯決勝進出、ベルマーレ平塚(湘南ベルマーレの前身)では天皇杯優勝を果たすなど、行く先々のチームで活躍した。

 しかし、監督としてはJ2で88試合23勝12敗53敗と、成功したとは言い難いだろう。

 1995年にスパイクを脱いだ信藤は、2001年に横浜FCの監督に就任した。

 当時J2昇格初年度だった横浜FCは、成績低迷によりシーズン途中となる9月に永井良和監督が退任。後任として指揮を任された信藤にはチームの立て直しが求められた。

 最終的に全12チーム中9位でシーズンを終え、監督1年目としてはまずまずの成績を残した。

 問題となったのは、就任2年目となる2002シーズンに信藤監督が採用した戦術である。

「超攻撃的サッカー」を掲げ、[2-4-4]のシステムで戦うことを決断した。

 当然、このフォーメーションでは守備陣に大きな負担がかかるため、それを上回る得点を奪わなければ勝ち点を積み重ねることは出来ない。

 しかし、対策してくる相手に有効策が見出せなかったこと、そして攻撃に人数をかけたことで攻守のバランスが崩壊したことで、この試みは失敗に。

 J2最下位(リーグワーストの81失点)という最悪の結末を迎えてしまった。

 翌2003シーズンはピエール・リトバルスキー氏と監督を交代している。

 守備の立て直しを期待されたリトバルスキー氏だが、一度完全に崩壊した守備陣を修復することはできず。

 2003シーズンは昨季を上回る88失点を喫している。

 一見すると魅力的に聞こえる信藤の超攻撃的サッカーだが、その代償に失ったものはあまりにも大きかった。

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