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J1 1か月前

なぜ、いなくなった…。日本の「消えた天才」10人。才能がありながらも、伸び悩んだのは?【Part2】

シリーズ:編集部フォーカス text by 編集部 photo by Getty Images

 若くして才能を評価された選手でも、長くキャリアを続けられるとは限らない。ケガやプレッシャーなど、様々な理由でプロとしてのキャリアを早期に終えた選手もいる。今回は、かつて天才と称されながら、期待通りのキャリアを送れなかった日本人選手たちをピックアップして紹介する。成績は『transfermarkt』を参照。[3/5ページ]
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MF:大野敏隆(おおの・はるたか)

大野
【写真:Getty Images】

生年月日:1978年5月12日
主な在籍クラブ:柏レイソル、東京ヴェルディ

 大野敏隆は、柏レイソルでJ1通算170試合に出場し、プロとして一定の成果を残した。だが、若手時代に周囲が描いた理想像には届かなかった。

 前橋育英高等学校で2年生のころから注目され、1997年に柏レイソルでプロキャリアをスタート。同年のFIFAワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)では、中村俊輔とともに攻撃の主軸を担い、第2戦のコスタリカ代表戦で2ゴールを挙げた。

 特に視野の広さとパスの正確さはこの世代屈指で、瞬時の判断で局面を打開する配球センスは“天才”と評された。

 柏では3年目の1999年に背番号「10」を託され、北嶋秀朗らとともに攻撃をけん引。ヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)決勝の鹿島アントラーズ戦では先制点を決め、クラブ初の主要タイトル獲得に貢献した。

 しかし、2000年代に入るとケガや外国人選手との競争により出場機会が減少。京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)、名古屋グランパスへの移籍を経て柏に復帰するも、椎間板ヘルニアの手術など故障が重なり、2008年に現役を退いた。

 2023年、中村俊輔は自身の引退試合後の会見で「横並びで一緒にやってよかったのは、(小野)伸二とワールドユースで一緒にプレーした大野と大ちゃん(奥大介)だった」と語った。

 日本屈指のレフティーがそう語るほど、大野もまたピッチ上で同じ景色を見ていた。

 数字に表れない司令塔としての存在感。そのセンスは今も“未完の天才”として語り継がれている。

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