欧州主要リーグの冬の移籍市場は、短期決戦だ。補強ポイントが明確なクラブに途中加入する一方で、環境・戦術・序列に慣れる猶予はほとんどない。本稿では、冬の海外移籍で歯車が噛み合わず、キャリアの流れを変えてしまった日本人選手を取り上げ、その背景と「失速の要因」を辿っていく。※データは『Transfermarkt』を参照[5/5ページ]
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DF:中田浩二(なかた・こうじ)
生年月日:1979年7月9日
移籍先:鹿島アントラーズ→マルセイユ(フランス)
移籍日:2005年1月31日
中田浩二は、2005年1月に鹿島アントラーズからフランス1部のマルセイユに加入した。しかし、フランス挑戦は1年で終了した。
帝京高等学校での活躍が注目を集めた中田は、1998年に鹿島でプロキャリアを始め、2000年にサッカー日本代表デビューを飾った。
日韓共催の2002 FIFAワールドカップ(W杯)では、全4試合に出場し、日本を代表する選手のひとりとなった。
中田をマルセイユに呼び寄せたのは、2002年W杯で日本代表を率いたフィリップ・トルシエ監督。その要請に応える形で、欧州挑戦を決断した。
加入当初は左サイドバックとして出場機会を得ていたが、同時期に加入したタイエ・タイウォが次第に台頭。
特にサイドを駆け上がる推進力と、強烈な左足のキックは、もともとボランチだった中田にはない武器だった。
当時のマルセイユはフランク・リベリやサミル・ナスリといった攻撃のタレントも豊富で、バランスを取る中田よりも、タイウォの破壊力が優先された。
6月にトルシエ監督が解任されると、加入2年目となる2005/06シーズンにはさらに出場機会が減少。中田は2006年1月にスイスの名門バーゼルに活躍の場を移した。
バーゼルでは定位置をつかみ、スイス1部リーグ優勝やスイスカップ2連覇などの実績を積み重ね、2008年夏に鹿島へ復帰した。
中田の欧州挑戦は決して失敗だけではなかったが、マルセイユへの移籍は、監督主導の移籍が持つリスクを象徴する一例でもある。
指揮官の交代が、選手の立場を一変させる厳しさを改めて感じさせる移籍だった。
【著者プロフィール:編集部】
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