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コラム 4時間前

フィオレンティーナが失ったロッコ・コンミッソという男。「愛情を常に示した」会長の死が意味する、クラブの不安な未来とは【コラム】

シリーズ:コラム text by 佐藤徳和 photo by Getty Images

ロッコ・コンミッソ
フィオレンティーナ会長のロッコ・コンミッソ氏が他界した【写真:Getty Images】



 衝撃的なニュースが飛び込んできたのは1月16日のこと。フィオレンティーナの会長を務めていたロッコ・コンミッソ氏が、長い闘病生活の末に他界した。ヴィオラとフィレンツェの街に注いでいた愛情が深かったゆえに、彼を失ったという事実はものすごく大きい。これからのクラブの未来には不安が残る。(文:佐藤徳和)[1/2ページ]
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フィオレンティーナ会長が他界


ロッコ・コンミッソを失った花の都フィレンツェは深い悲しみに包まれた【写真:Getty Images】

 1月16日、花の都フィレンツェが深い悲しみに包まれた。

 フィオレンティーナの会長、ロッコ・コンミッソが長い闘病生活の末にアメリカ合衆国で他界した。76歳だった。

 移住したアメリカで大手通信企業「メディアコム」を創業し、実業家として目覚ましい成功を収めた。その後、フィオレンティーナのオーナーとなり、祖国イタリアにも大きな足跡を残した。

 フィオレンティーナは17日未明、コンミッソ会長の死去を家族のコメントとともに発表した。

「深い痛みと悲しみのなか、妻キャサリン、子どもたちのジュゼッペとマリーザ、そして姉妹のイタリアとラッファエリーナは、ロッコ・B・コンミッソ会長が永眠いたしましたことをご報告申し上げます」



 正式発表はイタリア時間の午前3時。多くのイタリア人が、目覚めと同時にコンミッソの訃報を知ることとなった。

 その突然の死は、フィオレンティーナのファンにとっても大きな衝撃だった。

 熱狂的なサポーターでインフルエンサーとしても知られるニッコロー・プッチは、自身のYouTubeチャンネルで驚きを隠さずにはいられなかった。

「朝、目が覚めると同時にこの知らせを知った。晴天の霹靂だった。コンミッソが、しばらくの間、フィレンツェを訪れず、問題を抱えていることは知っていたが、誰もこのような事態になるほど重症だったとは思っていなかった。愕然としている」

アメリカ合衆国で残した功績

 コンミッソは、イタリア半島の“つま先”に位置するカラーブリア州のマリーナ・ディ・ジョイオーザ・イオーニカにて1949年11月25日に生を受けたが、12歳の時に母と2人の姉妹とともにアメリカへ渡り、ペンシルベニア州で大工を営む父ジュゼッペのもとに向かった。

 それから1年後、一家はニューヨーク市ブロンクス区へと移り住む。青年期をアメリカで育ちながらも、“calcio”を胸に携えながら生きてきた。

“soccer”でその才能が認められ、全米有数の名門校、コロンビア大学の奨学金を得た。大学進学後も、当然のようにサッカーを続けた。

 1967年から1970年にかけてはコロンビア・ライオンズでプレーし、新入生チームの一員として無敗でシーズンを終えた。

 1970年には共同キャプテンも務め、その年、コロンビア大学は史上初めてNCAA(全米大学体育協会)プレーオフに出場。そして、1972年には、オリンピックを見据えたアメリカ代表のトライアウトに招待されるまでに至っている。



 長期にわたり、コロンビア大学の支援者・資金提供者であり続けた。この間、サッカーチームは、アメリカ北東部の名門私立大学の8校からなるNCAAの著名なスポーツ・カンファレンスであるアイビー・リーグの中で、最も成功を収めるチームの一つへと成長した。

 その後、コンミッソは「Friends of Columbia Soccer(コロンビア・サッカーの友の会)」を共同で設立し、1978年から1986年まで会長を担った。彼のもとで、チームはアイビー・リーグで8連覇を達成し、1983年にはNCAA選手権の決勝に進出した、唯一のアイビー・リーグ校となった。

 それから約30年後の2013年、3500人の収容能力を持つ母校のサッカースタジアムには、「ロッコ・B・コンミッソ・サッカー・スタジアム」の名が冠された。

 こうしてコンミッソは、アマチュアの枠を超え、プロフェッショナルの世界へと歩を進めることになる。

フィオレンティーナ買収。わずか4年で実現した奇跡とは

 2017年1月、名門ニューヨーク・コスモスの過半数株式を取得し、会長に就任。コスモスは当時、北米サッカーリーグ(2部リーグに相当)に、現在はUSLリーグ1(3部リーグに相当)に所属するが、かつては、“王様”ペレ、“皇帝”フランツ・ベッケンバウアーがプレーした、アメリカサッカー界の象徴的存在として知られる。

 2025年7月以降、コンミッソ家はクラブの少数株主となったものの、現在も関係を保ち続けている。

 そして、2019年6月6日、イタリア・サッカー界でその名を轟かすこととなる。フィオレンティーナの買収である。

 南部生まれの多くの人間がそうであるように、彼もまたユヴェンティーノであった。ASローマへの参画を持ちかけられたこともあれば、ミランとの交渉では、合意に迫ったものの、当時の会長、リー・ヨンホンの条件を拒み、最終的に実現には至らなかった。

 また、フィオレンティーナのオーナー就任会見の場では、複数のイタリアの南部のクラブから売却の打診があったことを明かしていた。

 それが、USCパレルモやカルチョ・カターニャであったことが明るみに出たが、コンミッソは、あくまでセリエA優勝経験のあるクラブの買収に固執していたようだ。



 デッラ・ヴァッレ家からフィオレンティーナを買収した額は、1億7000万ユーロ(約306億円)とされている。この会見の場で、新会長は「スピード感を大切にすること」と強調していた。

 その言葉に偽りはなく、すぐに行動へと移された。

 10月には、フィレンツェ中心街から約8キロとアクセスの良いバーニョ・ア・リーポリの土地を購入。新トレーニングセンター建設に向けた官僚的手続きが開始された。2021年2月には着工、2023年10月には竣工となった。

 パンデミックや資材高騰という予期せぬ障害もあり、当初の予定であった2022年12月までの完成とはならなかったが、それでも何十年も停滞していたトレーニングセンター建設というクラブの悲願を、就任からわずか4年で実現させたことは“奇跡”と称された。

 このトレーニングセンターには、天然芝5面、ハイブリッド芝5面、スタジアム付きのグラウンドが2面と計12ものグラウンドをはじめ、プールやトレーニングジム、宿泊施設、大食堂、メディカルセンターなどを完備。イタリア最大級にして、ヨーロッパでも最先端のスポーツ施設の一つと高く評価されている。

 しかし、コンミッソにしても、大きな壁として立ちはだかったものがあった。

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