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コラム 3時間前

セリエA・B・C1すべてで得点王。代表歴ゼロ、それでもイタリアサッカー史に残る“プロヴィンチャの英雄”イゴール・プロッティの生涯【コラム】

イゴール・プロッティ
58歳で亡くなったイゴール・プロッティ氏【写真:Getty Images】



 イタリアサッカー史で、セリエA、セリエB、セリエC1のすべてで得点王に輝いた選手は、わずか2人しかいない。その一人、イゴール・プロッティが6月19日、58歳で亡くなった。A代表に一度も招集されず、強豪クラブでは定位置を築けなかった。なぜプロッティは、A代表に届かなかったにもかかわらず、人々の記憶に残る存在となったのか。ゴール、仲間、家族、そして最後まで守り抜いた信念から、その生涯をたどる。(文:佐藤徳和)[1/2ページ]

代表歴ゼロ。3カテゴリー得点王が生きた時代

リヴォルノ時代のイゴール・プロッティ
リヴォルノ時代のイゴール・プロッティ【写真:Getty Images】


「この素晴らしい旅も、すべての試合と同じように、ついに試合終了の笛を迎えた。これは、永遠の別れではなく、再会を約束する別れであることを願って」

 イゴール・プロッティ。享年58歳。1年前から大腸がんを患い、闘病生活を強いられていた。家族を通じて、最後のメッセージが『Instagram』にて公表されている。

 セリエA、セリエB、セリエC1、この3つのカテゴリーで得点王になった人物は、歴代で2人しかいない。

 もう一人はダリオ・ウブネル(日本ではヒューブナーの表記で知られるが、実際の発音に近い表記はウブネル)。

 プロッティは1967年9月24日生まれ、ウブネルは1967年4月28日生まれだ。奇しくも2人は同い年だった。前者はセリエAで48得点、後者は74得点をそれぞれ記録している。

 だが、2人には、不幸な共通点があった。これだけの記録を持ちながらも、サッカーのイタリア代表とは縁がなく、一度も招集を受けることはなかった。

 ただし、一つ付け加えなければならない。“サッカーの”と記したのは、理由がある。プロッティは、現役引退後にビーチサッカーのイタリア代表として、プレーしている。それだけ、“マッリャ・アッズッラ(イタリア代表のユニフォーム)”への思いが強かったのかもしれない。

 2人が代表と縁がなかった背景には、時代も大きく影響していた。運がないことに同世代には、イタリアで歴代最高のプレーヤーの一人と称されるロベルト・バッジョ(1967年2月18日生まれ)がいた。一つ下には、セリエAで3度得点王になったジュゼッペ・シニョーリ(1968年2月17日生まれ)もいた。いわば、ファンタジスタ全盛の時代であった。

 2人が仮に今の時代にプレーしていたら、優秀なストライカー不足に悩むイタリア代表にとって、貴重な戦力となっていたに違いない。

17歳で出会ったサッキ。ゴールなきプロ生活の始まり

イゴール・プロッティを偲ぶプレート
イゴール・プロッティ氏を偲ぶプレート【写真:Getty Images】


「ロ・ザール(皇帝)」の愛称で親しまれたプロッティは、アドリア海沿岸でローマ時代に起源を持つリーミニの生まれだ。イタリアを代表する映画監督であるフェデリーコ・フェッリーニの出生地として知られ、夏季は海水浴客で賑わう街である。

 プロキャリアをスタートしたのも、街を代表するクラブ、リーミニ・カルチョだったが、1983/84シーズンから2年を過ごしたものの、リーグ戦で得点はなかった。

 2シーズン目に指揮を執ったのは、ゾーンプレスを体系化した人物として名を馳せるあのアッリーゴ・サッキであった。しかし、サッキは17歳だったプロッティを重用することはなく、その後イタリア代表監督に就任してからも、成熟したプロッティに声を掛けることはなかった。

1985年夏からは、リグリーア海の港町に本拠を置くUSリヴォルノに所属。3シーズンにわたってプレーしたが、このクラブとの結び付きが強固となるのは、2度目の加入となる1999年以降のことだ。

今はなきクラブ、ヴィレッシト・ベルガモ(セリエC1)とACメッシーナ(セリエB)を経て、1992年夏に所属したSSCバーリも、プロッティにとって大切なクラブだ。

 矢のように突き抜けるスピードを武器とし、抜群の得点嗅覚も備えてゴールを量産した。171cmと上背はなかったが、空中戦からも多くのゴールを挙げている。まさに、生粋のゴールハンターであった。

 1993/94シーズンにセリエB昇格を果たし、迎えた2年目のセリエA、1995/96シーズンに才能が開花。前シーズンの7ゴールを大きく上回る24得点を挙げ、SSラツィオに所属したシニョーリと共に得点王に輝いた。

 プロッティは28歳で、実にチームの総得点(49)の半分近くを挙げたものの、チームは18チーム中15位に終わり、降格となった。当時のSSCバーリといえば、ゴール後のムカデパフォーマンスが日本でも話題となったが、イタリアでは“トレニーノ(小さな列車)”と呼ばれていた。

得点王からわずか2年でセリエBへ。強豪で味わった挫折

ラツィオ時代のイゴール・プロッティ
ラツィオ時代のイゴール・プロッティ【写真:Getty Images】


 降格したクラブを離れ、プロッティは次のステージとして、当時は世界的なクラブであったSSラツィオに移籍した。

 実はこの時、インテルへの移籍がまとまりかけていたが、ネラッズッラは最終的にチリ代表FWイヴァン・サモラーノを獲得し、プロッティの移籍は破談となったと、本人が後に語っている。

 翌シーズンはSSCナポリにレンタルでプレーしたが、4得点に終わった。1998年夏にはSSラツィオに復帰し、リーグ戦2試合に出場した後、10月にセリエBのレッジャーナへ移籍。セリエAのゴールキングが、2年後にはセリエBのクラブへの移籍を強いられる。それだけ厳しい時代であった。

 そして、32歳で迎えた1999年夏、新たな挑戦の舞台に選んだのがUSリヴォルノだった。11年ぶりの復帰である。

 セリエC1に属していたクラブは、2000/01シーズン、プロッティが20得点を挙げてグループA最多得点を記録したものの、プレーオフ決勝でコモFCに敗れ、セリエB昇格は叶わなかった。

 しかし、01/02シーズンには、プロッティがさらに得点を重ね、2年連続のトップスコアラーとなる27得点を挙げて、チームを31年ぶりにセリエBへ押し上げた。

 すると、02/03シーズンのセリエBでも、その得点能力は衰えを見せず、23得点をマーク。セリエA、セリエB、セリエC1(2回)での得点王となった。チームは10位に終わったものの、2003年には地元リヴォルノ出身の大物ストライカーが新加入する。

 クリスティアーノ・ルカレッリである。

 これまで深紅色をシンボルとするUSリヴォルノでこそプレーしたことはなかったが、誰よりもリヴォルノを愛する男の加入に港町は熱狂した。

 そして、36歳のプロッティが24ゴールを挙げると、28歳のルカレッリはそれを上回る29得点を叩き込み、セリエAへと返り咲いた。

 実に54年ぶりの帰還となった04/05シーズンのセリエAでは、プロッティが6ゴール、弟分のルカレッリが24ゴールを挙げる活躍で、ゴールキングとなった。

 イタリア共産党が結成され、反ファシズムの歴史を受け継ぐリヴォルノで、プロッティは精神的な意味でも街と深く結び付いた。

 仕事熱心な父のもとで育ち、幼い頃から働くことの尊さを理解していた彼は、労働者階級が多い街の民衆的な気質とも自然に共鳴し、単なるサッカー選手を越えた存在として、多くの人々から敬愛された。

 リヴォルノの街が受けた喪失は計り知れない。

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