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マンU伝説の「ファーガソンの雛鳥たち」全選手紹介。ギグス、ベッカム、スコールズ…歴史に名を刻む男たちの肖像

シリーズ:マンU伝説の「ファーガソンの雛鳥たち」 text by 編集部 photo by Getty Images

カントナから栄光の7番を引き継ぐ

デイビット・ベッカム
その甘いマスクと華麗なプレーで当時絶大な人気を誇ったデビッド・ベッカム【写真:Getty Images】

MF:デビッド・ベッカム
生年月日:1975年5月2日(43歳)
トップチームデビュー:1992年9月23日(17歳)
クラブ経歴(リーグ戦成績)
92/93~02/03 マンチェスター・ユナイテッド 265試合52得点
94/95 プレストン・ノースエンド(レンタル) 5試合2得点
03/04~06/07 レアル・マドリー 116試合13得点
07~12 ロサンゼルス・ギャラクシー 98試合18得点
09 ACミラン(レンタル) 18試合2得点
10 ACミラン(レンタル) 11試合0得点
12/13 パリ・サンジェルマン 10試合0得点
代表歴:イングランド代表 115試合17得点
主なポジション:右サイドハーフ

 デビッド・ベッカムの名は、もはやサッカー界の枠を超え、世界中のありとあらゆる人々に認識されるほどに轟いている。もし、サッカーに興味のない友人に聞いてみても、「知らない」という人はいないだろう。

 ハリウッドスターにもひけをとらないルックスと、頻繁にアレンジされるヘアスタイルは2000年代初頭の若者の憧れとなり、遠く日本でも02年ワールドカップ日韓大会開催を機にブームとなった。

 もちろん、ベッカムの魅力はルックスだけではない。右足から放たれるボールは正確無比という言葉では足りないほどの軌道を描きながら逆サイドの味方の頭や足元にピンポイントで吸い寄せられ、独特のフォームから放たれるFKは芸術的なゴールを何度も生み出した。

 1992年9月23日、リーグカップ2回戦ブライトン戦でトップチームデビューを果たしたベッカムは、94/95シーズンに当時リーグ2(4部)のプレストン・ノースエンドへのレンタル移籍によってきっかけをつかむと、翌95/96シーズンには33試合に出場して7得点を記録。97/98シーズンからはエリック・カントナから背番号7を引き継ぎ、人気実力ともにクラブの顔といえる存在となった。

 若くハンサムなスターの存在は、そのシーズン後に開催されたワールドカップ・フランス大会でも大きな注目を集めたが、この大会でキャリアに暗い影を落とすこととなる。

「酸素カプセル」までもブームに。凄まじい人気ぶり

 宿敵アルゼンチンとの決勝トーナメント1回戦、ベッカムはディエゴ・シメオネのタックルに倒された上に背中を押し付けられるなどの挑発を受けると、離れるシメオネに足をかけて倒してしまい警告。すでに1度警告を受けていたため、退場処分となった。チームもPK戦の末に敗退となり、現地メディアからは「10人の勇敢なライオンと1人の愚かな若者」と批判を浴びる結果となった。

 しかし、翌98/99シーズンのバイエルンとのチャンピオンズリーグ決勝で、汚名返上の活躍を見せた。1点ビハインドで迎えた後半アディショナルタイムにCKから逆転となる2得点を演出。その右足の精度を世界中に見せつけ、一躍ヒーローとなった。

 さらに02年のワールドカップ日韓大会では、大会前の骨折によって出場が危ぶまれたものの、「酸素カプセル」を用いた療法で早期回復を果たし、アルゼンチンとグループステージではPKによる得点を決めて因縁に終止符を打った。この「酸素カプセル」も“ベッカム・カプセル”と呼ばれ、やはり日本ではヘアスタイルとともにブームとなっている。

 さらにベッカムの凄さは、世界トップのスター選手でありながら、泥臭いプレーも厭わない点が挙げられる。サイドハーフの選手ながらトップスピードはそれほど速くはなかったが、常に全力でピッチを走り、守備でも手を抜くことはなかった。そのため、セントラル・ミッドフィールダーとして起用される試合もあった。

 ファーガソン監督からはヴィクトリア夫人と結婚したことで変わってしまったとされ、移籍の道を余儀なくされたが、“銀河系軍団”と言われたレアル・マドリーにおいて、ベッカムのハードワークは大きな力となっていたことも事実。

 ギグスとの両サイドコンビは実質8シーズンで終わりを告げたが、その勇姿は今なおユナイテッドファンの脳裏に焼き付いているはずだ。

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