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世界最高のMFモドリッチの知られざる幼少時代。迫りくる戦火と愛する人の死。それでも愛したボール

text by ビセンテ・アスピタルテ photo by Getty Images

平穏を奪った戦火。惨劇の舞台でも愛したボール

ルカ・モドリッチ
モドリッチは惨劇の中でもボールを愛した【写真:Getty Images】

 その祖父の名もルカと言ったが、彼はザトン・オブロヴァチュキから山を数百メートル登ったところにある、ぽつぽつと家が建っているだけの村落ザセオクに住んでいた。

 おそらく遠戚の家族の誰かが、彼らのことを「モドリッチィ」、つまり「モドリッチ家族」と呼ぶようになったのだろう。そう呼び始めたのは、その場所の最初の家がたまたまザトンから最も離れたところに建てられ、それから残りの家々が建築されていった頃のことだ。

 最初の家の後方には、急カーブ後に完全な山塊があり、それ以上道路をつくることは不可能となっていた。その場所はほかから遠く、行きづらいところにあったために、これ以上ないほどに閑静だった。浪費したり見栄を張ったりする場所もなく、ただ謙虚であることが唯一の選択肢だった。

 だがしかし、ダルマチアから国の他地域の交通を遮断するというセルビア人勢力の決定が、この地に甚大な影響をもたらす。ヴェレビト山脈は、クロアチア内陸部及びボスニアへの接触を妨げるための重要な飛び地になったのである。こうしてザトン・オブロヴァチュキの安寧は崩れ去った。

 ユーゴスラビア人民軍(JNA)は1991年9月初めにキニンからオブロヴァッツ、ヤセニッツェ、ロヴァニスカまで進行し、11日にマスレニツァ橋に到達。この橋の爆破はザダールをリエカ、ザグレブから分断し、孤立させることにつながった。そして9月16日よりザダールへの侵攻を開始。そこから内陸へ向けて100キロのところまでは、すでにJNAとセルビア民兵たちの支配下にあった。

 ルカ・モドリッチはそんなこととは無関係に、フットボールの球を蹴り始めていた。彼がいるところには絶え間ない戦闘があるわけではなかった。しかし険しく、寂れている孤立した場所にあっても、セルビア人の無秩序な軍隊は、無防備な民間人にとっては常に畏怖すべき対象となっている。

 恐れおののく彼らが強奪に遭ったり、明確な行き先もないまま止むを得ず家から逃げたりすることは、決して少なくなかった。ただの軍事練習で、何の罪もなく殺されることさえ。

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