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世界最高のMFモドリッチの知られざる幼少時代。迫りくる戦火と愛する人の死。それでも愛したボール

text by ビセンテ・アスピタルテ photo by Getty Images

凄惨な祖父の死。一家は絶望に囚われたまま旅立ちへ

 12月の半ばになると、この地域も実際的に深刻な状況となり始める。顔が凍り、骨身に沁みる寒気が襲いかかったが、寒気は恐怖という言葉に置き換えることができた。セルビア民兵たちは、勝手気ままに振る舞った。

 同月の16日にはヤセニッツェで5人の民間人が殺され、そして、それからわずか48時間後には、ルカ・モドリッチの人生を決定的に変化させることになる恐ろしい出来事が起こった。

真夜中、自宅から100メートルのところで道と森を見張っていたルカの祖父が、セルビア民兵に蜂の巣にされたのだ。機関銃のけたたましい音は、家族の住む家にまで届いた。

スティペは、血だらけで力なく地面に横たわる父親を見つけたとき、すぐにでもここから逃げるべきなのだと悟った。自分の父親のためにできることはほとんど残っておらず、しかし妻と小さなルカとヤスミナを守らなくてはならない。もう、状況は耐え切れるものではなくなっていた。

 旅立つしかなかった。絶望に囚われたまま。その選択は正解だったのだろう。何となれば、12月20日にはオブロヴァッツ、クルシェヴォ、ヤセニセッツェ、ザトン・オブロヴァチュキ、メドヴィジャに残った多数のクロアチア人が、クニンの収容所に引致されたのだから。その多くは家族が置いていった高齢者たちだった。また翌日には、ブルシュカで10人が亡くなった。カード遊びに興じている最中、一人のセルビア民兵に出し抜けに処刑されたのだった。

 好ましからざる状況に後押しされて、ルカ・モドリッチはその人生の中で初めて大きな旅に、彼の人格に決定的な影響を与える旅に出た。人間の非合理性によって体中を撃ち抜かれた最も愛おしい人物の一人と、自分の居場所に別れを告げて。

 その場所はいつどんなときにも平穏だったが、1990年代初頭に対人地雷の魔の手から逃れることはできなかった。道に埋もれた地雷は長年にわたって、人々を恐怖心で満たした。

 天井のない場所で幾夜も過ごし、モドリッチ一家がようやくたどり着いたザダールは、3カ月以上も爆撃にさらされていた。被害が甚大だったのは10月と11月だったが、12月になっても戦火は激しいままだった。加えて、この景勝の飛び地はアドリア海の出入り口となっているために、戦闘を海上へと移させている。

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