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世界最高のMFモドリッチの知られざる幼少時代。爆弾が降り注ぐなかでも追い続けたボール

text by ビセンテ・アスピタルテ photo by Getty Images

「誰もがいついかなるときにも死ぬ可能性があることを受け止めていた」

 人々はそれでも働いていたし、子供たちは学校に通って午後には練習に取り組んでいた。スポーツも含めた社会的な催し物だって行われていた。爆撃があった次の朝には、路上は公務員の手で、まるで何も起こらなかったかのように清掃されていた。地元記者のブランコ・タバックは、悲劇の舞台となった当時のザダールについて、次のように描写する。

「私たちは日々にわたる砲火、度重なる爆撃に苦しんだ。水も電気もなかった。セルビア人たちは、どこを目標とするかについてさほど気にしていなかったし、病院の小児科設備、学校、教会、バスの停留所、個人の住まいと、あらゆる場所が爆撃された。しかし、私たちはそうしたことともに生きていかなければならなかった。だから学校、保育園、店は開いていたんだ。閉める理由などなかったんだよ。なぜなら、誰もがいついかなるときにも死ぬ可能性があることを受け止めていたからだ。路上、教室、自分たちの家と、どこも危険にさらされていたのだから」

 実際はそうではないのに、普通に振る舞おうとする努力があった。その努力は1993年初頭にクロアチア軍がマスレニツァ橋を取り戻すまで続き、それからザダールの状況は確実に良くなっていった。とはいえ、クロアチアの他地域では、まだまだ激しい戦闘が続くことになる。1995年8月の〝嵐作戦〞で、クロアチア軍が国のほぼすべてを統制するまでは。

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