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04年、松井大輔。「私の30年間で最も…」「どんなに誇りに思っているか」。今も愛されるル・マンの太陽【リーグ・アン日本人選手の記憶(1)】

日本人選手の欧州クラブへの移籍は通過儀礼とも言える。これまでにもセリエA、ブンデスリーガなどに多くのサムライが挑戦したが、自身の成長を求め新天地にフランスを選ぶ者も少なくはない。現在も酒井宏樹や川島永嗣がリーグ・アンで奮闘中だ。今回フットボールチャンネルでは、そんなフランスでプレーした日本人選手の挑戦を振り返る。第1回はMF松井大輔。(取材・文:小川由紀子【フランス】)

シリーズ:リーグ・アン日本人選手の記憶 text by 小川由紀子 photo by Getty Images,Yukiko Ogawa

地方の小クラブ、ル・マン加入

松井大輔
2004年、松井大輔はル・マンに加入。自身初の海外挑戦となった(写真は日本代表のもの)【写真:Getty Images】

『ル・マンの太陽』。

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 松井大輔のフランスでのキャリアを振り返るときに、必ず語られるのがこのフレーズだ。

 ル・マンは、パリから西へ高速鉄道で1時間弱のところにある、人口15万人ほどの町。京都パープルサンガに所属していた松井は、アテネ五輪に出場後、いくつかあったオファーの中から、当時リーグ2(2部リーグ)にいたこの地のクラブを、初の海外挑戦の場に選んだ。

 21歳のときに出場した2002年のトゥーロン国際大会でベストエレガントプレイヤー賞に選ばれていたから、一部のサッカーメディアやファンには松井は知られた存在だった。中学生時代にはパリ・サンジェルマン(PSG)の練習に参加したことがあり、松井にとってフランスは、なにかと縁のある国でもあった。

 ル・マンといえば、圧倒的に有名なのは24時間耐久自動車レースだ。地元民から「MUC(ミュック)」と呼ばれるサッカークラブの方は、2部と3部を行き来する典型的な地方の小クラブだったが、それだけに育成には力を入れていて、ディディエ・ドログバを輩出したのが自慢だった。

 松井が入団したこのシーズンは、クラブ史上初めてトップリーグに昇格したものの1年でリーグ2に逆戻りし、ふたたび昇格を目指す、という状態にあった。

 合流して間もなくスタメンに定着した松井は、激しいデュエルなど、フィジカルコンタクトがより熾烈なリーグ2の洗礼を受けたが、4-3-3の左サイドを定位置に、リズム感にあふれたドリブルや精度の高いパス、トリッキーなフェイントを繰り出すテクニカルなスタイルは、すぐに地元ファンを魅了した。

「ダイスケ・マツイは、わたしがこれまでの30年間のスポーツ記者人生の中で出会った、最も並外れたフットボール選手だ」。

 そう語ったのは、ル・マンの地元紙、『ウエスト・フランス』のベテラン記者ジャック・エベール氏だ。

「彼のテクニックはケタ違いだ。他の選手と彼は、まったく別の次元にいる。わたしにとってダイは、一人のサッカー選手というよりもむしろアーティスト。彼はゲームに新風を吹き込み、フランス中のスタジアムで感嘆の声を巻き起こしている」。

松井は「絶滅危惧種の10番」

 ル・マンでの挑戦を語る上で欠かせない存在が、松井が入団した後の12月に着任した、フレデリック・アンツ監督だろう。プロクラブを指揮するのは初めてだったが、当時38歳と若い、ユニークで精力的な指導者だった。

 練習場ではいつも「ダイーー!!」と、アンツ監督が松井を叱る声が響いていた。松井はよく「監督は、ほんと怖いんすよ。しょっちゅう怒られてます」と、職員室で鬼教師にしぼられた生徒のような顔をしていたが、そこに監督の愛情があることは彼にも十分わかっていた。

 ビデオレクチャーのときも、松井のミスしたシーンを取り上げ「こういうボールの取られ方はしちゃダメだぞ!」と“生贄”にされていたが、アンツ監督は、松井がそんなことには動揺しないメンタルの持ち主であることを、実は非常に高く評価していた。監督は常々こう言っていた。

「ダイのもっている能力を知るにつれ、彼にはいろいろキツい要求をしたくなる。彼には常に、一段上のものを求める。それは、彼が必ず、わたしの期待に応えてくれるとわかっているからだ」

 また、レキップ紙でのインタビューではこうも語っている。

「ダイは、これまで私が見たことのないような技をやってのける。身体の構造上不可能だ、と思えるものさえ、3、4つあった」。

 松井は、子供の頃から、アニメや名選手のビデオを見て習得したトリッキーな技や、胸がすくようなドリブルを実戦で繰り出すことを無上の喜びとし、そのたびに監督に叱られていた。松井を「絶滅危惧種の10番」と呼んでいたアンツ監督は、彼の能力を誰よりも認めていたが、チームにとって優先すべきは試合に勝つこと。

「ダイのドリブル突破やパスセンスはチームにとって非常に重要だ。しかしそれだけでは足りない。これからは、全体の動きのなかでどうやって自分が貢献してゆけるか、ということを磨いてほしい」。

 しかしこの要求は、松井にとっては相当なジレンマでもあった。パスがつながらないなど、チーム全体としてのレベルが劣るからこそ、個人技で突破するしか策がない。全体で、と言われてパスを回すゲームができるなら、よろこんでそうしたい、というのが本音だっただろう。

 松井が相手DFをはがして、ゴール付近で前を向いてさあここでパス! と思っても、その瞬間、周りの味方は同じ感覚で動けていない。スピーディーにサイドチェンジのパスを出したいタイミングなのに、対岸の選手はぼんやりしていて目も合わない。空いたスペースに体を滑り込ませてボールを呼びこもうとしても、ボールホルダーはこちらを見ていない。松井のフェイントが、敵だけでなく、味方選手にとってもフェイントになってしまうこともよくあった。

テクニシャンからゲームメイカーへの進化

松井大輔
「気合の証」として頭を丸めた松井大輔【写真:小川由紀子】

 それでも、松井の加入で確実にル・マンはチーム力を上げ、2位でシーズンを終えて念願のトップリーグ復活を決めた。松井も2年目はさらに主力としての存在感を増し、2005/06シーズンの初戦は、当時絶頂期にあった王者リヨンとの対戦でさっそく1アシストを記録。第12節のストラスブール戦ではリーグ・アン初ゴールをマークした。

 25mの距離からの華麗なボレーなシュート。この試合はさらに1アシストも記録して『フランス・フットボール』誌が5点満点をつけて、週間ベスト・イレブンにも選出している。また、1月のトロワ戦では2得点をあげ、リーグ月間MVPに選出された。3得点8アシストを記録した松井の活躍もあって、ル・マンはリーグ・アン復帰初年度を11位という立派な成績で終えた。

 この頃には、松井はフランス中のメディアが『ル・マンのゲームメイカー』と認める存在に定着していたが、その陰には、彼自身の意識の変化があった。自分のやりたいプレーを出したい、という思いが強かった松井だが、昇格、そして上位への挑戦と、ル・マンというチームとともに育まれる中で、チーム全体の動きの中で自分を活かすことの意義に彼は目覚めた。

 それはアンツ監督が常々松井に望んでいたことでもあったのだが、ピッチ上で観客を魅了するだけでなく、攻撃のチャンスにつながり、ゲームの流れを変える動きをすること。このハードルを越えたことで、松井は “テクニシャン”からチームの“ゲームメイカー”へと進化した。

 翌シーズンは持病の腰痛に悩まされて前半戦は欠場が続いたが、「気合の証」として頭を丸めて後半戦に挑むと、奇遇にも前年と同じく1月のトロワ戦で2得点をマーク。最終的に4得点4アシストでル・マンは12位でシーズンを終えた。

 シーズンオフにアンツ監督はクラブを離れ、後任には、ルディ・ガルシア監督が着任した。のちに酒井宏樹が所属するマルセイユを率いることになる指揮官だ。

 新指揮官のもと、松井はさらに攻撃のキーパーソンとしての存在感を増し、全コペティション合わせて7得点6アシスト。第5節のモナコ戦での「ジャンピング・バックヒールシュート」は、テレビ解説者をして「天才的!」といわしめ、月間ベストゴールにも選ばれた。

 チームも9位と、念願のトップ10入りを達成。ル・マンとの契約更新も考えたが、やりきった感を覚えた松井は、新天地へ向かうことを決意した。

古豪・サンテティエンヌ加入も…

 移籍先は、10回と国内最多タイトル数を誇る古豪サンテティエンヌ。UEFAカップに参戦できることも移籍を選択した理由のひとつだった。

 しかし、フロント内の揉め事や監督交代などクラブ自体が不安定な時期だったこともあり、スタメンに定着しないまま1年で離脱。2009/10シーズンは、2010年の南アフリカワールドカップに向けて、出場機会を求めて日本企業が出資したグルノーブル・フットへと移籍した。ル・マンで絶好調だったにもかかわらず、2006年のドイツ大会出場メンバーから落選していた松井にとって、南ア大会出場に賭ける思いは大きかった。

 グルノーブルはその年リーグ2へと降格し、多くの主力が離脱する中、松井もポルトガルの名門、スポルティング・リスボンとの契約にあと一歩のところまでこぎつけた。しかし最後のつめのところで破断となり、半年間シベリアのトム・トムスクへ期限付き移籍した後、グルノーブルに戻ってシーズンを終えた。

 そして翌シーズンは、リーグ・アンに昇格したばかりのディジョンに、パトリス・カルデロン監督のたっての希望で迎えられたが、怪我の影響、監督との意思のすれ違いなどもあって先発メンバーに定着しないまま、3試合、わずか137分の出場時間でシーズンを終えた。

「ダイのことを、どんなに私たちが誇りに思っているか」

フランス
ル・マンのサポーター達。彼らは今でも松井大輔を愛している【写真:小川由紀子】

 8年間に及んだ松井大輔のフランスリーグ挑戦。振り返れば、それぞれのクラブ、それぞれの場所で、学びがあったと彼自身も感じていることだろうが、その中でもやはり、ル・マンで過ごした4シーズンは、色濃く刻まれているように思う。

 リーグ・アン昇格を実現した初年度の体験を彼はのちに「あそこがなければ今の自分はないと思う。すごくいい経験ができた」と語っている。そしてファンにとっても、遠い異国からやってきて、魔法のようなプレーを見せてくれた松井大輔という選手は、スペシャルな存在だった。

 練習場に毎日トレーニングを見に来る常連サポーターたちの話題はいつも「ダイ」でもちきりだった。怪我をしていると聞けば、次の試合に出るべきか否かを真剣に討論し、おばさまファンは「目が合ったらダイが私にウィンクしてくれた!」と頬を紅潮させ、クラブハウスの屋根に乗ってしまったボールを、松井が上にのぼって取ったときには、「屋根の上でガッツポーズしたんだ。かわいいねぇ…」とオジサンファンまでメロメロだった。

 誰にこびることもなく常に自然体だったが、松井には人を惹きつける不思議な魅力があった。

 松井が「ル・マンの太陽」と呼ばれた所以は、日の出づる国、ジャポンから来た選手であること、リーグ2からふたたびトップリーグ入りを目指す上昇気流のチームに光を差し込んだこと。そしてもうひとつ、サポーターやスタッフ、チームの仲間たちなど、ル・マンの人々の心を照らした、文字通り「太陽」のような存在だったことだ。

 彼が在籍していた時期は、クラブ史の中でトップリーグに君臨した輝かしい時代とも重なっている。そのまばゆい思い出は、10年以上たった今でも少しもあせることなく、ル・マンの人々のあいだでいまだに時折、語られている。

 ある日、練習場にいたサポーター軍団が、どうしてもダイに伝えたいことがある、とこちらにやってきた。

「ダイのことを、どんなに私たちが誇りに思っているか、伝えてほしい。彼がいるときといないときでは、チームは全然違う。ダイは今や、MUCのプライドを背負ってるんだ」。

 あらためて思う。これだけの存在になった松井大輔は、本当にすごかった。

(取材・文:小川由紀子【フランス】)

【了】

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