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小社主催の「サッカー本大賞」では、4名の選考委員がその年に発売されたサッカー関連書(漫画をのぞく)を対象に受賞作品を選定。選考委員の一人でもあるフランス文化研究者、作家、文芸批評家の陣野俊史氏にサッカーにまつわるあれやこれやに思いを巡らせてもらう連載「ゲームの外側」第8回は、久しぶりのサッカーをめぐる講演について。と、インテリとサッカーについて。
(文:陣野俊史)
久しぶりにサッカーをめぐって講演をした。講演の主な柱は、フランス代表のサッカー史である。
【写真:Getty Images】
サッカーについて人前で話すということについて書こうと思う。
週の大半は大学で講義している身なので、人前で話すことには慣れているけれど(もうかれこれこの仕事を30年以上やっている)、時々講演なるものを頼まれることがある。
話す相手は、初対面の人たち。年齢もバラバラ。
私が何者で、どんなことを専門としているか、まったく知らない人たちである。これはじつはなかなか緊張する。
ふだん顔を合わせる大学生たちは、私の漫談のような話しぶりに慣れているし、眠ければ寝るし、こっちも無理に起こそうとしないので、暗黙の了解でなんとかなる部分があるのだが、初対面だとそうはいかない。
で、講演では慣れないパワポを作ったり、事前に原稿を書いたりもするのだが、ほぼ役に立たない。
その場に行かなければ、どんな空気が支配的なのか、読めないからである。
60年を超える人生で、もっとも「講演」をこなしたのは、これははっきりと覚えているが、2014年だった。
サッカー界に巣食っている人種差別をあれやこれやと取り上げ、ヨーロッパで行われている差別撲滅の運動を紹介するものだった。
同じ年の3月、浦和レッズをめぐって持ち上がった横断幕事件がきっかけになって、無観客試合が行われた。そのことがこの新書の根底にある。
ただ、いまはその件は措く。私は3カ月ほどでその新書を書いたのだが、反響は少なくなかった。
特に、地方公共団体から連絡が、たぶん20件以上あったと記憶する。
サッカーと人種差別について、講演してほしい、というのだった。不思議な気がした。
どうしてサッカーにおける人種差別について話してほしいのか、ふだんサッカーを観ない人たちに向けて、なのか否か。
そして私はいったい何を問題提起するべきなのか。考えあぐねたが、すべての話を引き受けた。
大阪のA市、B市、和歌山のC市、東京のD区、E区、広告代理店のF、人権団体のGなどなど、とにかく2014年の後半は毎週のように「講演」に出かけた。
ひとつわかったことがある。それは、サッカーと人種差別問題は、収まりがいい、ということだった。
例えば地方自治体で、差別撤廃の講演会を企画したとする。
通例、こうした講演会は1回では終わらない。4、5回の連続講座のことが多い。
最初の1回目は差別問題のスペシャリストによる「概説」。最後の回はスペシャルゲスト(例えば、北朝鮮に娘を拉致された家族など)が控えている。
で、連続講演の真ん中あたり、3回目くらいにサッカーと人種差別問題はどうだろうか、ちょうどいいのではないか、と(たぶん)講演会の企画者は考えたのだと思う。
テーマとしてマイナーでもないし、関心がないわけでもない。
サッカー界には差別主義者が跋扈していると言うではないか、そのあたり、新書まで書いてしまった専門家(私のこと……)に聞いてみよう、という企画である。
私の役回りはわかった。そしてできる範囲で懸命に新書に書いたことと、その先のことを語ったつもりだ。
でも1年が経過したあたりから、サッカーと人種差別は話題としての旬を過ぎたようで、ぱったりと講演依頼は途絶えた。
まあ、そんなもんかな、とも思う。でももう少し意識を連続させてもいいかな、とも感じる。
先月、久しぶりにサッカーをめぐって講演をした。講演の主な柱は、フランス代表のサッカー史である。
フランス代表の試合ならば、なんのかんの言いながらも、何十回も観ている。
最近の試合も欠かさず。講演で的を絞ったのは、フランス代表キャプテンの動静について。
プラティニもジダンもロリスも、一言で言えばモノを言わぬキャプテンだった。政治的な問題にコミットしなかった。
それが伝統と言えばそうも言えるかもしれない。でも、キリアン・エムバペは違う。
モノを言うキャプテンである。そのことが彼への批判に火をつけているし、彼を擁護する人々に力を与えている。
つまり、彼の政治的スタンスが人気を二分している、ということだ。例えば、2023年6月、パリのナンテールで、ナエルという名の少年が警察官に射殺された事件があった。
職務質問の最中に乗っていた車をほんの少しだけナエルが動かしたのがきっかけだった。動画は拡散し、一部の若者が暴徒化した。
事件から数時間後、エムバペは「フランスは傷んでいる」とSNSに投稿し、警察を非難した。
さらにその数時間後、まるでエムバペの言葉をなぞるように、マクロン大統領が「説明不能の行為だ」と警察を批判した。賛否は措く。
エムバペとはそうした選手なのだ、と思う……。といったような話を、講演で話した。うまくいったかどうか、わからない。
面白かったのは、講演の後の質疑応答である。
ふだんかなり学術的な講演の多い場で、雰囲気にそぐわない、くだけた感じの講演だったので、あまり質問など出ないだろうと思っていたのだが、手があがる。
一人、質問が終わるとまたあがる。で、またあがる。といった状態だった。
めちゃくちゃ面白かったのが、なぜか怒気を含んだ年配の男性が、「フランスのインテリはサッカーなど、やらん。関心もない。絶対にサッカーなどやらんのだ」と主張したこと。
いや、私はインテリではないし(少なくとも「フランスのインテリ」ではない)、サッカーは大好きだけれど、フランスのインテリがサッカー好きだと強弁もしなかったのだがなぁと頭をかくしかなかったのだけれども、とにかく、階級というものがフランスのインテリには刷り込まれているのだから、サッカーなどやらんのだ、とのご発言。
ああ、そういえば、とこちらも言葉を繋ぐのだが、昔、思想家のアントニオ・ネグリがフランスに亡命していた時代、大学の事務をやってくれている若い女性とはフランスのリーグ・アンの話題が通じるけれど、同僚のインテリたちとはまったく話が通じないので、退屈至極。
サッカーの話をしたくなってイタリアに戻ったら、空港で政治犯として捕まったことがありましたね、くらいの軽い昔話でやり過ごそうと思ったら、許してもらえる気配もなくて、その男性の意図としては、私がフランス代表のサッカーをとても人気のあるスポーツとして語ったことが、なぜかいたくお気に召さなかったようで、なんだか不穏な空気も流れた。
結局その場はそのまま、なんとなく収束したのだが、あれ、そんなにインテリってサッカーに関心ないんだっけ?
とちょっと気になったのだが、フランスのインテリのなかでも極めつけのインテリで、すぐに脳裡に浮かぶサッカーファンは、哲学者のジャック・デリダと、作家のアルベール・カミュである。
二人ともアルジェリアと深い繋がりをもつ人物たち。
やっぱり、アルジェリアが鍵を握るのだな、と再確認した次第。ジダンやベンゼマだけじゃなくても。
そうそう、それで思いだしたのだが、4月21日に88歳で亡くなったローマ法王のフランシスコは、サッカーが大好きだった。
うれしそうにマラドーナとハグする写真を4月22日の『レキップ』紙が掲載している。
サン・ロレンソの熱心なサポーターだったという(サポーター身分証に法衣を着て写っている)。アルゼンチン生まれだもの、当然といえば当然ではある。
(文:陣野俊史)
陣野俊史(じんの・としふみ)
1961年生まれ、長崎県長崎市出身。フランス文化研究者、作家、文芸批評家。サッカーに関する著書に、『フットボール・エクスプロージョン!』(白水社)、『フットボール都市論』(青土社)、『サッカーと人種差別』(文春新書)、『ジダン研究』(カンゼン)、共訳書に『ジダン』(白水社)、『フーリガンの社会学』(文庫クセジュ)がある。その他のジャンルの著書に、『じゃがたら』『ヒップホップ・ジャパン』『渋さ知らズ』『フランス暴動』『ザ・ブルーハーツ』『テロルの伝説 桐山襲烈伝』『泥海』(以上、河出書房新社)、『戦争へ、文学へ』(集英社)、『魂の声をあげる 現代史としてのラップ・フランセ』(アプレミディ)など。
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【了】