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J1 1か月前

「めちゃくちゃ影響を受けました」四六時中ずっと一緒から33年。京都サンガF.C.で再び交わる曺貴裁と吉田達磨の絆とは【コラム】

シリーズ:コラム text by 藤江直人 photo by Getty Images

曺貴裁監督と吉田達磨監督
2015シーズンに監督として対戦した曺貴裁監督と吉田達磨監督【写真:Getty Images】



 1993年、Jリーグ元年に柏レイソルで始まった縁は、立場や距離が変わっても途切れることはなかった。指導者として対峙し、時に励まし合いながら、それぞれの道を歩んできた曺貴裁監督と吉田達磨氏。33年の歳月を経て、再び同じチームで時間を共有することになった2人の関係性は、京都サンガF.C.に何をもたらすのか。(文中一部敬称略)(取材・文:藤江直人)[1/2ページ]
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再び同じ時間を過ごすことになった2人

柏レイソル、吉田達磨

現役時代柏レイソルでプレーした吉田達磨氏【写真:Getty Images】

 同じチームに所属するのは実に33年ぶりとなる。今シーズンからヘッドコーチとして京都サンガF.C.のトップチームに入閣した吉田達磨氏を、曺貴裁監督は親しみを込めて「タツ」と呼び続けてきた。

 6学年違いの2人が初めて出会ったのは、日本中のサッカーファンが待ち焦がれたプロリーグのスタートを直前に控えた1993年春。舞台は最初のシーズンに臨んだ、いわゆるオリジナル10ではなかった。

 名称を日本リーグの名門だった日立製作所サッカー部から日立FC柏レイソルへ改称。翌1994シーズン以降の昇格を目指す体制を整えたJリーグ準会員クラブで、早稲田大学から入社して3年目の曺と、日立製作所ジュニアユース出身で、東海大浦安高校を卒業したばかりの吉田はすぐに意気投合した。



 屈強なセンターバックだった曺に対して、吉田は華麗なテクニックを武器にするゲームメイカー。ポジションもプレースタイルも異なる2人は、実はピッチを離れても同じ時間を共有し続けていた。

 当時の所属選手のほとんどは社員で、原則として人事部もしくは総務部に配属された。

 例外は第一志望にあげた宣伝部勤務となった曺。そこへ2年遅れて高卒ルーキーの吉田も配属され、ともに独身だった2人は柏市内の3階建ての寮住まいとなった。吉田が懐かしそうな口調でこう語ったことがある。

「四六時中ずっと一緒」すべてを共有した戦友

柏レイソル、吉田達磨
1993-96シーズンを柏レイソルでプレーした吉田達磨氏【写真:Getty Images】

「しかも隣同士の部屋だったんですよ。306号室が曺さんで、僕が307号室でした」

 当然ながら通勤も一緒。柏駅から満員のJR常磐線に揺られ、北千住駅で地下鉄千代田線に乗り換え、新御茶ノ水駅で降りて徒歩わずかの距離にあった日立製作所本社へ定時に出社する。

 午前中で業務を終えると柏市内へと戻り、柏のトレーニングで汗を流し、週末には旧ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)の戦いに臨む。もっとも、2人の共闘はこれだけで終わらなかった。



「いつも曺さんの部屋に呼ばれて、曺さんの車に乗って食事へ行って、帰りにお茶をして、寮に着いたらまた曺さんの部屋に行ってという感じで。本当に四六時中ずっと一緒という表現がふさわしかったですね」

 もちろんお茶が一杯で終わるはずがない。食事の“延長戦”の舞台は、飲み物がおかわり自由のファミリーレストラン。ここで時間を忘れるほど、サッカーを熱く語り合うのがいつしか日課となった。

 曺と吉田に加えて、現在はJ2いわきFC代表取締役の大倉智、J2テゲバジャーロ宮崎監督の大熊裕司、そしてJFLアスルクラロ沼津ヘッドコーチの横山雄次がいつものメンバーだった。

「熱くというよりは、熱すぎるほどに…」

浦和レッズ、曺貴裁

1994-95シーズンを浦和レッズでプレーした曺貴裁監督【写真:Getty Images】

「そのなかで僕はまだまだ若造で、本当に話を聞いているだけでしたけど、選手なら別に気にしなければ気にしないで済むようなことを、熱くというよりは、熱すぎるほどに語り合っていました」

 吉田が振り返った議論のテーマは多岐にわたった。プロサッカー選手とはどうあるべきか。プロサッカークラブや日本サッカー界の未来はどうなるのか。常に中心にいたのは曺。吉田がさらに続ける。

「いいのか悪いのかは別にして、あの人たちはやると決めたら本当にやっちゃう。何をやっているんだろうと思うこともありましたけど、あのバイタリティーは刺激になったし、めちゃくちゃ影響を受けました」

 しかし、1993シーズンの旧JFL1部で柏は5位に終わってJリーグ昇格を逃してしまう。オリジナル10に加わったのは優勝したフジタ(現湘南ベルマーレ)と2位のヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)だった。



 迎えた1994シーズン。プロ選手の道を志した曺は、オファーを受けた浦和レッズへ移籍。2年後には当時JFLのヴィッセル神戸へ移籍したが、怪我もあって1997年シーズン限りでスパイクを脱いだ。

 一方の吉田は柏で1995シーズンにJリーグ昇格を果たすも、2年間でリーグ戦の出場が4試合にとどまる。

 1997シーズンから京都パープルサンガ、1999シーズンからはJ2のモンテディオ山形へ移籍し、シンガポールのジュロンでプレーした2002シーズンを最後に現役生活にピリオドを打った。

 別々のクラブでプレーしてからも、お互いにセカンドキャリアで指導者の道を歩みはじめても、2人の関係は1993シーズンのままで変わらなかった。

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